ラボラトリーで大切にすること

15日の金曜日まで、新潟の津南市の施設に合宿して、看護学校の1年生向けに2泊3日の人間関係トレーニングの授業をしてきました。

学生さんの様子をスタッフ全員で共有し、毎晩のスタッフミーティングで次の日のプログラムを考え予定を修正していくので、準備は大変です。でもこれによって学生の内から湧いてくるエネルギーを感じて、学びをデザインすることが可能になります。やはりこの…

いま2つのラボラトリーの準備に追われています。

1つは新潟にある看護専門学校の1年生のための2泊3日の「人間関係トレーニング」で、3人の外部講師で80名の新入生のためのラボラトリーをします。もう1つは、ミニラボで京都の宇多野ユースで1泊2日のラボラトリーをします。これには5人のスタッフ…

昨日は、看護協会さんで学びを共にしました。認定看護師のファーストクラスの数十日ある学びの1コマです。毎年3回行われ、私は今年で2年目です。

毎回80名の師長、副師長、主任さんが集まり、グループワークでもすごいエネルギーを持つ学びの集団になります。昨日印象的だったのは、実習が終わってグループでその体験をふりかえってもらい、気づき学びを整理して発表してもらったことでした。あるメン…

前回に続いてラボラトリーの歴史的発展についてです。

その後、ラボラトリーには臨床心理学者や精神医学の専門家が加わり、臨床的な傾向が強まり、グループ内の対人的なプロセスにトレーナーの関心が向いたとされる。スタッフやトレーナーの強調点の置き方によって、「グループ中心」、「対人関係中心」のラボラ…

あけましおめでとうございます。

今年は10年目に入ったラボラトリーの活動を文章をまとめながら、整理したいと考えています。書きかけですが、随時ここに載せていきたいと思います。(1)ラボラトリートレーニングの誕生 ラボラトリートレーニング、すなわちラボラトリー方式の体験学習は…

沖縄のラボラトリーから帰ってきました。

今回のラボでは、自分から何かを無理にするのではなく、いまここで自分に、かかわりの中で起こってきたことに目を向け、聴き、受け容れることを大切にしてみました。 こうした「いまここで与えられることを受け容れる、受け取る」ことは一見受け身のようです…

いよいよ週末から沖縄のクララ修道院で、HILのラボラトリーが始まります。

私たちは先遣隊で、今朝出発します。私たちがかかわりの中で、豊かな恵みと平和を与えられるように祈っています。

このシリーズの最終回です。

もうデューイの時代から、今ラボラトリーが大事にしたいと思うことが構想されていたのだと感じます。5、デューイの教育 こうした哲学の上にデューイは<何のために><どのように>教育実践を実現するかを構想する。それは「内なる光」の道のりを妨げるもの…

続きです。デューイの人間観、人間関係観、社会観、世界観もラボラトリーの源流になっています。

4、デューイの人間観、人間関係観、社会観、世界観 ラボラトリーに関わるスタッフは、その人間観、人間関係観、社会観、世界観が重要と言われる。これをどうとらえるかによって、教育や人との関わりをどうとらえるかが決定づけられるからである。 さてデュ…

続きです。

3、デューイの時代認識と教育に対する問題意識デューイは自らが生きた時代のありかた、特に人間の在り方と社会の在り方を、「内なる光」を見失ったものとして痛烈に批判する。それが「失われた個人」であり、民主主義の頽廃である。こうしたデューイの問題…

前回の続きです。ラボラトリーの教育哲学を齋藤直子さんの著作から考えています。

2、エマソンの「内なる光」とデューイの思想 齋藤直子はデューイの詳細なレビューにより、体験学習のスタートをなすデューイの「衝動」概念が、エマソンの「内なる光」と密接な関係があることを論証した。またこの「内なる光」はラボラトリーでよく用いられ…

前からの懸案だったラボラトリーの教育哲学の一つの源流について考えています。

デューイはそのプラグマティズムによってラボラトリーの考え方に影響を与えたことが知られています。例えばラボラトリーのベースにある体験学習のサイクルもまたデューイの考え方からの影響を強く受けています。逆に言えば、ラボラトリーのベースにある体験…

今ラボラトリーに関する考え方を整理しています。

今日はデューイの習慣(習性)と衝動についてです。齋藤直子さんは次のように書いています。 「習性はデューイにとって人間性と成長の基盤を理解する根本的道具とされる。それは単なる環境への順応ではなく、環境の能動的制御としての慣れとされる。彼は習性…

明日からいよいよ「私らしい生き方づくり講座」が始まります。

今回の講座について思いめぐらせる中で、ゲシュタルトでいう図と地の考えが浮かんできました。日ごろ私たちは仕事や子育てという目の前の事柄を注意の焦点を集中する「図」としてみて、それに対処します。 しかし私たちの中にはこの図の他にも、「いまここ」…

パールズが作ったゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩ですが、ラボラトリーの考えとは少し違うのかなと思っていました。

しかし彼の本を読んで、私たちは自他の境界にどのようにコンタクトするかで神経症になることがわかり、それでこれが強調されるのだなと理解出来ました。 ゲシュタルトの祈り私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。 私はあなたの期待に応えて行…

坂口先生とお話しした中で、印象に残っているもう1つが本質と方法の区別が出来ないという部分です。

私たちは何かの教育プログラムを実施する際、教育目的(哲学)と方法を区分けして考えがちですが、実際には例えば体験学習では体験からの学びのサイクル自体が螺旋状にある種の目的に向かう性質をもっているように思えます。この辺りはデューイも口を酸っぱ…

先週土曜日に、Tグループを日本に紹介したJICEの創立に携わられた坂口先生が、長尾先生の自宅にお越しになりました。

いつもの体験と学び研究会のメンバーととともに、ラボラトリーやその哲学について自由に談義しました。 先生はレヴィンがカフェで行った弟子との間のフランクな談義をお好みでしたが、まさにそうした雰囲気のある談義となりました。 わたしの中ではたくさん…

私がラボラトリーで学んだことの1つに「いま、ここ」の重要性があります。

かかわりの中で「いま、ここ」で湧いてきたものに従ってかかわっていくことがラボラトリーでは生じます。もちろんそれは大切な学びの過程なのですが、それがどれほど大切なことかについては、私自身あまり意識していませんでした。 しかし、少し過去の哲学等…

先週の土日、京都の宇多野ユースで、第一回のミニラボを開催しました。

参加者16名、スタッフ5名で行いましたが、一泊二日という短い期間だったにもかかわらず、参加メンバーには大きな気づきや学びが生じていたようです。 それだけにスタッフの側も個別にメンバーにかかわり、またラボラトリーの枠を守るのに相当のエネルギー…

いま参加者、スタッフ総勢14名で「かかわり方の学び方〜基礎編」を進めています。

これは何か「正しいかかわり方」のようなものがあって、そこに向けて「how to」を学んで行く講座ではありません。私たちが、いまここの自分の気持ちや感じ、想いを大切にすることで、より自分らしいかかわり方を見いだしていく講座です。 私たちは生まれ持っ…

先日、日本ラボラトリートレーナーの会に参加してきました。

これはTグループのトレーナーの研鑽のための会です。Tセッションを2回行いましたが、もう80歳を過ぎた大御所の方とグループが同じになり、そのかかわり方の暖かさに驚きを覚えました。 かかわってもらうのがこんなに暖かく、嬉しいものと再発見しました。…

これまで平和の祈りとラボラトリー・トレーニングのかかわりについて書いてきた。これはもちろん平和の祈りやラボラトリーの全容をとらえたものではない。両者のかかわりについて、わたしがいま感じていることを断片的にとらえたに過ぎない。最後にもう一度、平和の祈りを見ておこう。

主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。 憎しみのあるところに愛をもたらす人にしてください。 争いのあるところにゆるしを 分裂のあるところに一致を 疑いのあるところに信頼を あやまりのあるところに真理を 絶望のあるところに希望を 悲しみの…

私たちはこれまで生きてきたプロセスの中で、「ものの見方」や「感じ方」、「反応の仕方」や「かかわり方」などを自分のものとして身につけている。これは身の回りの人のかかわりや、他者から言われたことなどから学習してきたもので、それ自体にはよい悪いはない。これは自分の「特長」と言っていいだろう。

●しかしこうしたものの見方やかかわり方などは、時に固定化し「変えられない」ものになってしまうことがある。例えばカルト教団では外部の情報や人とのかかわりを遮断し、考え方や反応の仕方などを徹底的に教え込み、身の回りの人すべてがカルト流の考え方や…

私たちは普通、「あなたはどなたですか」と問われた時、「大企業の社員」とか「大学の先生」などと答える。時には「お金持ち」や「妻」と答える人もいるかもしれない。つまり私たちは自分が「何者か」であるという考えや見方を持っていて、これで自分を他の人から区別している。これは自己概念と呼ばれる。

●こうした自己概念を持つことはとても健全なことだ。しかし私たちは時にこの「何者かであること」に囚われてしまい、そうでないと自分に価値がないように感じられる時がある。こうなると「何者か」でなくなってしまうこと、または「何者か」になれないことが…

わたしは昔、銀行員として7年半働いたことがある。大学生の時どうしても希望の職を見いだすことができず、消去法で選んだ職場であった。その頃は、親元からはなれ自立することが大事に思えたので、とにかく安定的な収入が得られる会社に入ったのである。

●しかし銀行にいるということは、わたしにとって苦しいことであった。単調な仕事に意味を感じにくいこともあったし、上意下達で堅苦しい風土にあわなかったこともある。ただ、わたしが最もしんどかったのは「生きるってこんなものさ」というあきらめが、周り…

わたしがラボラトリー・トレーニングを学んだ人に、故山口真人さんがいる。彼はトレーニングを行うトレーナーにとって一番大事なことは、「グループとメンバーを信じること」と言っていたが、そのことを実感したのは山口先生と一緒にグループに入った時のことだった。

●グループ体験を後から客観的にふりかえると、徐々に信頼関係が生み出され、成長していったことを俯瞰できる。しかしグループの中にいる時は、一つの壁を乗り越えたと思えばまた次の大きな壁に直面するという連続で、どうしてよいかわからず戸惑うことも多い…

私たちにとって最も根深い「疑い」の1つに、あるがままの自分が相手やグループに受け入れられないのではないかということがある。つまりいま自分が感じたこと、想ったことをありのままに伝えると、相手に拒絶されてしまうのではないかという「疑い」である。

●特に私たちは、本当に心から言いたいことほど口に出しにくい。それがとても大切なことだから、受け入れてもらえないと深く傷つくからである。こうした時私たちは伝えるのを諦め、言いたいことをぼかし、当たり障りのない言葉にして伝え、拒絶されることを防…

私たちは誰でも自分なりのかかわり方や物事のとらえ方、行動・反応の仕方などの特徴やクセを持っている。そしてそれはひとり一人違う。この違いは私たちの持ち味にもなるが、同時に私たちの間の相互理解を難しくし、時には分裂を引き起こす要因になる。

●自分のことを考えても、考え方やとらえ方があまりに異なる人とかかわりあうのは難しいと感じることが多い。例えば自分ではいい仕事ができたつもりでも、他の人がそんな風に思ってくれない時、がっかりした気持ちや怒りが湧いてくる。「価値観が違う」とその…

●「ゆるす」ということは、私たちの生きるあり方に大きな影響を与えている。例えば「自分で自分をゆるせない」場合、私たちは自分を肯定したり、価値あるものと感じたりすることができなくなってしまう。その結果、自分らしくあるがままに生きることが難しくなる。

●わたしも学校を卒業し7年半勤めた銀行を辞めて家にいた時、周りの人(世間の人?)の目が怖くて昼間に外出を控えたことがあった。実際には誰も気にしていないのに、自分自身で「昼間から休んでいること」に罪悪感を覚えていたのである。●私たちは生きてい…

わたしはここ数年沖縄の修道院で行われる4泊5日のラボラトリー・トレーニングにかかわっている。そしてこうした経験を重ねる中で、最近わたしはある祈りを大切だと感じるようになった。それは鳥に説教したことで有名なアッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」である。

●この祈りはとても美しい詩でもあるので、まず渡辺和子の訳で紹介したい。 主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。 憎しみのあるところに愛をもたらす人にしてください。 争いのあるところにゆるしを 分裂のあるところに一致を 疑いのあるところ…