私たちはこれまで生きてきたプロセスの中で、「ものの見方」や「感じ方」、「反応の仕方」や「かかわり方」などを自分のものとして身につけている。これは身の回りの人のかかわりや、他者から言われたことなどから学習してきたもので、それ自体にはよい悪いはない。これは自分の「特長」と言っていいだろう。

●しかしこうしたものの見方やかかわり方などは、時に固定化し「変えられない」ものになってしまうことがある。例えばカルト教団では外部の情報や人とのかかわりを遮断し、考え方や反応の仕方などを徹底的に教え込み、身の回りの人すべてがカルト流の考え方や反応をする状態を作り上げる。

●こうなると私たちはその世界に適応するため、カルトが求めるものの見方や考え方、反応の仕方などを身につけざるを得ない。こうして私たちはあたかも機械のように固定化された反応をするようになり、それを変えるのは難しくなる。変化のない「闇」の世界に閉じ込められてしまうのだ。

●しかしよく考えるとこれはカルトだけのことではない。日常の世界でも多かれ少なかれ私たちは、家庭や職場などに適応するためさまざまなものの見方や反応の仕方を身につけている。例えば会社の会議で「沈黙」は無意味な時間と教えられると、沈黙を避けようとする反応を身につけていく。

●そしてそれが習慣化すると、自分でも意識できないままそれは「クセ」になり、結果的に機械的に反応してしまうようになる。そして私たちはその「クセ」を、身につけた世界とは全く違う新しい世界に持ち込んでしまう。それが典型的にあらわれるのがラボラトリー・トレーニングだ。

●ラボラトリーでは話題を決めず話し合う「Tグループ」を行う時がある。ここではトレーナーは司会やリーダーの役割を果たさない。規範やルールもない全く新しい世界だ。そのため私たちが過去に身につけてきたさまざまなクセが現れてくる。例えばよくあるのは沈黙が起きると話をはじめる「クセ」である。

●最初は多くのメンバーが、こうした沈黙を破ってくれるメンバーに感謝する。しかしグループが進み同じことが何度も起きると、だんだんとその人の機械的な行動パターンが気になってくる。なぜなら、その人が本当にそれを望んでやっているようには思えないからだ。

●そしてメンバー間の信頼関係が増していくと、「いまここ」で感じたことを伝えあうかかわりが生まれてくる。例えば沈黙を破り続けるメンバーに、「何か無理しているように見えるよ」と伝える人がでてくる。また「実はわたしはいまの沈黙が心地よかった」と言う人もでてくるかもしれない。

●こうしてフィードバックを受けたメンバーは、なぜ自分はこうした反応をしているのかを考えだす。つまりいままで見えていなかった自分のかかわり方や反応の仕方の「クセ」に気づき、見直しはじめるのだ。その結果、例えば過去の会社の会議で、沈黙が悪いことのように教えられたことを思い出す。

●同時に沈黙のたびに話の口火を切るのは自分もしんどいこと、さらに「いまここ」での沈黙は自分にとって居心地が悪くないこと、他のメンバーも沈黙を嫌がっていないことに気づく。つまりこの人は自分も「しんどい」と感じていたのに、過去に身につけた「クセ」のために沈黙を破り続けていたのだ。

●そしてこうしたことに気づけると、「いまここ」の自分の気持ちや想いを大切にした新しいかかわり方や反応のパターンを試し、築いていくことができる。例えば自分自身がいまここで話したい気持ちがなければ、沈黙を守るという行動を選択できるようになる。

●このように「クセ」によって「いまここ」の気持ちや想いを無視して反応してしまう時、私たちは「過去」に囚われてしまっていると言っていいだろう。しかし実際には世界も私たちも絶えず変化している。その中で私たちは、「いまここ」を大切にしながら新たな「特長」を自分のものとしていく必要がある。

●つまり過去に囚われて機械のように反応するのではなく、「いまここ」に気づき、それを大切にして変化していくのだ。このことは「あるがままのわたしを生きる」ことと言ってもいいように思う。つまり「いまここ」を生きることであり、これこそが閉ざされた「闇」の世界を打ち破る「光」なのだ。

●こうして過去に築き上げてきたクセに気づき、「いまここ」を生きはじめる時、私たちははっきりと輝きだす。あまり目立たなかったメンバーも、くっきりと自分の色をだすようになる。くすんでいた石が磨かれて、色や形がくっきりと浮かび上がっていくように、いきいきと光り輝きはじめる。

●このようにラボラトリーはわたしにとって「いまここ」を他のメンバーと共に生きることで、自分のクセに気づき、変化させていくトレーニングなのである。同時にそれはわたしが「いまここを生きる」ことのトレーニングになっているようにも思える。