続きです。デューイの人間観、人間関係観、社会観、世界観もラボラトリーの源流になっています。

4、デューイの人間観、人間関係観、社会観、世界観

 ラボラトリーに関わるスタッフは、その人間観、人間関係観、社会観、世界観が重要と言われる。これをどうとらえるかによって、教育や人との関わりをどうとらえるかが決定づけられるからである。

 さてデューイはこれまで見てきた哲学のもとで、人間観、人間関係観、社会観、世界観を提示している。体験学習のサイクルを回す上で、これらがトレーナーに意識されているかどうかは、その生み出す結果に影響をあたえずにはおかないだろう。

(1)生き方としての民主主義

<テキスト>
エマソンは「自己信頼」において、人は自らの心の内側から光り輝く一筋の光を発見し見守ることを学ぶべきである」と述べている。「世界で価値ある唯一のものは活動的な魂である。これはすべての人間が資格を与えられているものである。そして全ての人間が自らの内に携えているものである。ただしほぼあらゆる人間において妨げられ、いまだ生まれでていないものである。活動的な魂は絶対的真理を見きわめる。そして真理を語り、創造する。この行動において、それは偉才である。偉才はすべての人間の健全な財産である」(エマソン、1990)

・デューイは「構築と批判」において、エマソンのこの「内なる光」を引用し、自己の内側から外へと開かれる民主主義の批判的構築の道筋をそこに象徴させている。後期のデューイの「内なる光」の視点は科学的手法にかかわる知性観に基づくプラグマティズム解釈によって過小評価されてきた「終わりなき成長」のもう1つの側面−進行する過程の今ここにおいて生起する美的イマジネーション、予見的衝動、成長における非継続的な跳躍の契機−を前面に出すことになる。

「すべての個人は、人類の営々たる広範な努力の中心であると同時に経路であるということ、すべての自然は人間の魂の教育のために存在するという事―このようなことはエマソンを読む時に、隔離された哲学の言明ではなくなり、一連のできごとや人間の諸権利についての自然な写し書きとなる」(デューイ、1977)

・デューイはエマソンの「精神民主主義」の構想に共鳴する。そしてその中心的な炎により万人を活性化する私的個人の「発展」を呼びかけるエマソンの声に呼応する。デューイにとっての精神的民主主義には、アメリカに公共性を再建するための「人間の魂の教育」が深くかかわる。それは一人ひとり個人の責任であり、権利である。そしてエマソンと同様デューイは、民主主義が完成されてしまった状態ではなく、達成されていく必要がある事を認めている。それには「今ここ」における忍耐づよい教育の過程が必要とされる。(デューイ、1977a 189)
 ・「民主主義は達成された特別の結果よりも、経験の過程の方が一層重要であるという信仰」である。そして「必要と欲求(がその動因であり、)は、未開拓で達成されていない未来への道をたゆみなく開く。これはエマソンの完成の「旅路」と近似する。この創造的民主主義の核心は「自由な探求、自由な会合、自由なコミュニケーション」に従事する「人間の能力」の育成であり、「民主主義への信仰は、経験と教育への信仰と一体である

(2)デューイの目的観と世界観

<テキスト>
ギリシャ的な二元論(目的と手段)と固定された目的があるとする考え方、アリストテレス的完成観が発達の「欠乏」モデルを生み出す。未成熟の子どもは「不十分」「不完全」とみなされる。

一方デューイは「幸福は探し求められるものではなく、苦痛や困難のさなかにあってすら、いま達成されているものである」とし、目的と手段の区分を形而上学的なものでなく、機能的にとらえた。つまり目的は次にくる行為を予測する視点としての役割を果たすことによって手段として機能する。逆に手段の方は、すぐ次の行動に与えられる名前であり「暫定的目的」ととらえられる。そして目的は行動の各瞬間に再構築されている。言い換えるなら「目的は成長する」。成長はたえず中間にあり、途上にある動きである。目的には終わりがなく一つの自己を持つことは、次なる自己へ移動する端緒となる。カベルはこれを「自己のそれぞれの状態が究極的なものである」と述べている。

これは絶対的完成、絶対的目標を目指すヘーゲルの完成観の批判である。絶対的制度主義、歴史主義においてヘーゲル的理論は具体的個別性を飲み込み、追従が教育の原理となる。

「教育は成長しつつある事と同義であり、それ以外の目的を持たない」。これは直線的で目標志向の経路としてではなく、諸目的においてあらゆる方向に開かれた統一体が果てしなく拡張していく経路としての成長概念である。これはデューイの相互交渉的ホーリズム(自己も世界も固定された実体として知り得るものではなく、それらの相互交渉の過程においてのみ開示されるという考え方)に基づく。カベルはこれを自己と世界の関係が相互的な応答関係であると主張する。

こうしたホーリスティックであり、拡大し、可変的でありつつも、無限と未完成の謙虚な感覚を持つデューイのエマソン的宇宙観は、成長について問わなければならない問いそのものを変容させる。目的は限定された方向の一つの点に決して固定することはできず、知られざるものの感覚とともに無限に成長する。従って成長の内容を定義できるもののように「何に向けての成長か」、あるいは「成長の目的は何か」という形で問うことができない。

エマソンの完成主義としてとらえられるデューイの成長も、その旅路のありよう、進行する成長の過程に向けられる一連の新しい問いを要求する。これは「いかに」という問いでなければならない。すなわち、いかにしてわれわれは、今ここで、生活の個別の状況の中で、諸目的を終わる事なく再創造し続けていくのか、いかにして一人ひとりが、自分たちの生活の仕方として「展望的目的」を明瞭にして実現させる事を学ぶことができるのか、そしていかにして「1つの行い」において「達成される終結」をもたらすのかといった問いである。

(3)デューイの基準の社会的再構築〜良き成長と悪しき成長の区分け

<テキスト>
デューイは明確な尺度として、固定的に事前に与えられる基準概念を拒絶する。完成としての成長の意義は「標準化、基本原則、一般化、原理、普遍項」によって測る事は決して出来ない。その代替案として彼は改訂可能な基準概念を提示する。

完成のある良き終わり方をもたらす方法は、基準を改定する過程でどのような類いの社会的相互作用が生じているかにかかっている。デューイは、それが実験と対話の中で共同行動を通じて行われると述べている。パトナムはこの概念を論じて「基礎づけなき正当化」というデューイのプラグマティズム的概念を保証するものが、「探究の民主主義化」の手順−共同探究と自由なコミュニケーションを用いた、仮説、検証、実験という科学的方法−であると主張する。

これは社会的知性を用いた民主主義的手順である。社会的知性の平等で自由な行使の能力を獲得することは成長の条件であり、それには教育が必要である。文化と慣習の道徳的基準は若者と大人の間の相互作用の中で、反省的、実験的知性を通じ、疑問にふされ再構築される。この相互作用のありようが成長の良き諸目的の創出を決定づけていく。対面的対話の関係性は、多様な視点の間で基準を改定するために、躍動的かつ精妙に構築される実践である。

相互作用の各瞬間にあって、思考、行動、発話のありようは、基準の社会的再構築にかかっている。この意味で固定された基準に準拠することなく、成長の1つのよき終わり方をもたらすことは、厳格さを要求される課題である。そして「善は、今でなければ永遠にもたらされない」という切迫した感覚に深くかかわる。

ただ、ここでは「いかに」それが可能かについての批判も展開されている。例えば若者の衝動がいかに開放可能か、いかに若者と大人の相互作用が柔軟に行われうるのかなどである。

 これは偉大さの感覚とともに、古き自己と同時に他者との既存の関係を超越する。