わたしがラボラトリー・トレーニングを学んだ人に、故山口真人さんがいる。彼はトレーニングを行うトレーナーにとって一番大事なことは、「グループとメンバーを信じること」と言っていたが、そのことを実感したのは山口先生と一緒にグループに入った時のことだった。

●グループ体験を後から客観的にふりかえると、徐々に信頼関係が生み出され、成長していったことを俯瞰できる。しかしグループの中にいる時は、一つの壁を乗り越えたと思えばまた次の大きな壁に直面するという連続で、どうしてよいかわからず戸惑うことも多い。

●先生とご一緒したグループでも、終盤にさしかかり大きな壁が立ちはだかった。あるメンバーとの間で、十分なやりとりがどうしてもできないのだ。具体的には多くのグループメンバーが、そのメンバーと「いまここ」で感じている気持ちや想いをわかちあいたいと望んでいた。

●しかしそのメンバーは「いまここ」での自分の気持ちや想いを言葉にする経験がなく、そのため他のメンバーから求められても、それを言葉にして伝えることができなかった。それで結局何か他の「話題」で応答していたのである。それでグループの中にある種の「不全感」が生まれていた。

●こうした時トレーナーは、「自分が何とかしなければ」と思いがちだ。わたしも自分に何かできることはないかと模索したが、どうしても思いつかない。そうした時、山口先生はスタッフルームでわたしに、「あとは天使が舞い降りるかどうかだね」とあっけらかんとして言われたのだ。

●実際次のセッションでは、あるメンバーが「いまここ」でどうしても伝えたいと正面からそのメンバーとかかわっていった。そして結果として「いまここ」の気持ちや想いを伝えあい、受け取りあうという感動的なやりとりが生まれた。そして山口先生は「天使が舞い降りたね」とにっこり微笑まれたのだ。

●こうした時、例えばわたしがトレーナーとして何とかしようと義務感で無理にかかわっても、こんな結果は決して生じなかったように思う。「いまここ」でどうしても伝えたいと感じたメンバーの真剣なかかわりだからこそ、それが生まれたのだ。

●この体験のあとわたしは、「いまここ」で感じていることにできる限り気づき、そしてそれが肯定的なものであろうと否定的なものであろうと、伝えたいと感じる時はそれを伝えてみるという実験をしてみた。そして伝えたい気持ちが湧かない時は、ムリをせず静かに待ったのである。

●すると「いまここ」でわたしに伝えたい気持ちが湧いてくる時もあったし、他のメンバーの誰かにそれが起きることもあった。また皆が静かに沈黙する時もあった。そして後からふりかえると、そのいずれもが大切な時になり、わたしの想像をはるかに越えて、メンバーやグループの成長をもたらしたのである。

●この実験をする前のわたしは、やはり自分でグループに働きかけることを大切に考えていたと思う。グループをファシリテーション(促進)することが大事と思っていたのである。しかしこの体験以降わたしはトレーナーという役割を負っていても、グループで「何かをしなければならない」と思わなくなった。

●むしろ自然に「いまここ」で起きてくることを受け入れ、それに応じて勇気を持ってかかわればそれでいい。つまりいまここでわたしに起きてくることをわたしへの働きかけととらえ、それに「応答する」ことを大事にしたいと思うようになったのである。そしてその働きかけがない時は静かに待てばよい。

●またわたしは自分の不完全さを認めることができるようになった。ラボラトリーでは、私とあなたが共に生きるかかわりを大事にする。しかしラボラトリーの経験を重ねると自分の弱さや不完全さが見えてきて、自分の力では決してこうしたありたい姿に近づくことはできないと感じるようになる。

●そして「こんなわたし」がトレーナーという役割を担ってもいいのだろうかと感じてしまう。実際トレーナーが自分でこうしたかかわりを実現しようとするのは、人の近寄れない氷山の頂きにある宝を自力で持ち帰ろうとするようなものだ。それはわたしたちの「分」をこえた「あやまり」のように思える。

●しかし自分が弱く不完全であっても、「いまここ」での働きかけに応答すれば私たちはこうしたかかわりに近づける。それは泉から清水が湧くようなものだ。わたしたちは水が湧き出るのを待ち、それを汲めばよい。わたしはこの「応答」にすらよく失敗するけれど、それでも泉からは水が湧き続ける。

●またこうした体験を経てわたしは人間の尊厳に敏感になった。「いまここ」で起きてくることは、ひとり1人本当に異なる。これが人間の持ち味と言える。そして他の誰も持ち得ないこの持ち味を生かし、いまここでかかわりあうことで、私たちは自分自身や他者を生かすかかわりを生み出すことに参与できる。

●そしてこうした「いまここ」は、自分が意図して起こすことはできない。それでわたしは「時」を信じ、それに委ねることが大事だと感じるようになった。伝えるに時があり、待つに時がある。わたしはこうして自分に与えられる「いまここ」の時に生かされているように感じている。

●「いまここ」の時は、いついかなる時にも私たちに与えられている。そしてそれは私たちひとり一人に尊厳を与えてくれる。同時に共に生きる道へと導いてくれる。不完全で弱いわたしでも、与えられる「いまここ」の時に生かされていればそれでいいという「真理」は、わたしに平和を与えてくれる。