これまで平和の祈りとラボラトリー・トレーニングのかかわりについて書いてきた。これはもちろん平和の祈りやラボラトリーの全容をとらえたものではない。両者のかかわりについて、わたしがいま感じていることを断片的にとらえたに過ぎない。最後にもう一度、平和の祈りを見ておこう。

 主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
 憎しみのあるところに愛をもたらす人にしてください。

   争いのあるところにゆるしを
   分裂のあるところに一致を
   疑いのあるところに信頼を
   あやまりのあるところに真理を
   絶望のあるところに希望を
   悲しみのあるところに喜びを
   闇のあるところに光をもたらす人にしてください。

   慰められることよりも慰めることに
   理解されることよりも理解することに
   愛されることよりも愛することに喜びを見いだす人にしてください。

●以前わたしは、「自分を大切にすること」と「相手を大切にすること」を両立するのは難しいと感じていた。つまり自分を大切にすることは、自分だけが良ければいいといったわがままにつながり、場合によっては相手の「憎しみ」を生みだすと思っていた。

●しかしラボラトリーの経験を重ねる中でわたしは、「自分を大切にすること」が「相手を大切にすること」にもつながるのではないかと感じるようになっていった。それはこれまではっきりとした言葉になっていなかったが、この小論を書く中で言語化され、確信へと変わっていったように思う。

●つまり「自分を大切にする」ということは、自分の利益を求めることではない。「いまここ」で起きてくることを大切にし、それに応答して生きることなのだ。これは決してわがままではなく、「わたしとあなたが共に生きる」かかわりを生みだしていく。それは例えば次のようなことだ。

●いまここを大切にすることは、「あるべき像」と「いまここの自分や他者」との隔たりからくる争いを鎮め、あるがままであることをゆるすことにつながる。いまここを大切にすることは、私たちの違いからくる分裂をいやし、私たちがいまここでよりよく「私」を生きようとする点で一致していることを悟らせる。

●いまここを大切にすることは、演じないと受け入れられないのではという疑いを乗り越え、私たちはあるがままで受け入れあえるという信頼を生みだす。いまここを大切にすることは、私たちを生かすかかわりを生みだすのはわたしの力だと考えるあやまりを正し、それが与えられるものという真理を悟らせる。

●いまここを大切にすることは、「生きるってどうせこんなもの」という絶望をこえて、あきらめないで自分自身を生きていいのだという希望を生みだす。いまここを大切にすることは、役割や地位などを失う悲しみ、「何者か」になれない悲しみをいやし、あるがままのわたしでいいのだという喜びを与えてくれる。

●いまここを大切にすることは、過去に囚われ機械のように反応してしまう闇の世界に射しこみ、私たちがあるがままに変化することを可能にする光となる。このようにいまここを大切にすることは、「わたしを大切にすること」と「あなたを大切にする」を両立させ、「共に生きる」ことを可能にしてくれる。

●私たちは少ないパイを取り合って弱肉強食を繰り返し、憎しみあわなければならない存在ではない。いまここを大切にするかかわりによって、ゆるし信頼し、あるがままのわたしを生きることを支えあう「共に生きる」存在なのだ。恐らくこうしたかかわりは「愛」と呼べるものなのだろう。

●しかし見てきたようにいまここを大切にすること、それを大切にしてかかわりあうことは困難な道だ。日常を生きる中で私たちは忙しさや将来の目標に目を奪われるあまり、いまここを見失う。またゆるせない想いや不信、絶望、悲しみ、変化への抵抗、さらには自分の力への過信が私たちにまとわりつく。

●しかし「いまここ」が失われることは決してない。目を向けさえすればいつでも、それは「いまここ」にある。だから自分自身を大切にし、「共に生きる」ことを願う私たちに必要なのは、いまここを大切にするトレーニングをして、日々の小さな出来事やかかわりの中でそれを生かすことだと想う。

●それはいまここに起きてくることに気づき、それに応答して自分自身に、そして他者に働きかけるトレーニングだ。例えば「いまここ」で相手を知りたいという想いを大事に、相手を理解するためにかかわる。相手のいまの現状を聴いて慰めの言葉をかけたい時は、思い切って伝えていく。

●日常の中でこのように自分から「いまここ」への応答を行う人が増えていくなら、一つ一つは小さなかかわりでも、それは私たちの間に「平和」を生み出す大きな力となる。そしてわたしはラボラトリーが、「いまここ」を大切にするトレーニングとして重要だと感じている。それは「平和の道具」の1つなのだ。

●こうしたわけでわたしはこれから、このラボラトリー・トレーニングを大事にして生きていきたいと想う。そしてわたし自身の弱さや不完全さを自分でゆるしながら、毎日の一つ一つの小さな何気ない出来事の中で、「いまここ」を生きる努力ができたらと願っている。

<あとがき>
もともとこの小論は「いまここに、共に生きる」ことを大切にする<まほろばプロジェクト>をスタートするにあたって、それを「何のためにするのか」を明確にするためのもであった。そしていま一応、ここまで書き終わってそれは達成できたように感じている。