前からの懸案だったラボラトリーの教育哲学の一つの源流について考えています。

 デューイはそのプラグマティズムによってラボラトリーの考え方に影響を与えたことが知られています。例えばラボラトリーのベースにある体験学習のサイクルもまたデューイの考え方からの影響を強く受けています。逆に言えば、ラボラトリーのベースにある体験学習のサイクルは、デューイ的な教育哲学が一つの源流をなして作られているといっても過言ではありません。

 そこで今回はデューイの哲学を、その他のプラグマティズムの論者、特にエマソンの「内なる光」の概念との対話の中で再構成しようと試みる齋藤直子「<内なる光>と教育」をテキストとして参照しながら、私がラボラトリーの教育哲学と感じることをまとめて見たいと思います。

1、デューイの知性概念と体験学習のサイクル

 ラボラトリーのベースになる体験学習の考え方は、すでにデューイの教育思想の中に含まれている。それがデューイの「習慣(習性)」と「衝動」の概念である。いまでもラボラトリーの目的を、これまで生きてきた中で身に付けた「かかわり方のクセ」に気づき、<いまここ>の仲間との関わりの中でそれを見直していくということが言われるが、それはすでにデューイによって強く意識された概念であった。

<テキスト>
習性はデューイにとって人間性と成長の基盤を理解する根本的道具とされる。それは単なる環境への順応ではなく、環境の能動的制御としての慣れとされる。彼は習性の本質としての「反復」という考え方を拒絶する一方、何らかの仕組みやパターンが習性にとって不可欠であると考える。社会的慣習としての習性、あるいは生活形式は個人の習性形成の基盤となる。しかしながら、個人の習性は独特な力によって社会的習慣を修正する。この諸習性の相互作用的修正が、習性の再構築の仕組みー文化と社会の内側からの漸進的変容―である。

習性の再構築には2つの固有の側面がある。衝動と知性である。衝動は新奇さの種子を植え付け、古き慣習の統御を破るような生得的な傾向性である。デューイは衝動の機能を以下のように定義する。「衝動は、諸活動の再組織化が行われる旋回軸であり、逸脱の媒体であり、古き習性に新しい方向性を与えその質を変化させるものである。」

しかしそこには落とし穴がある。衝動は新奇さの源であるが新しい習性の始まりにすぎない。衝動は知性の機能、つまり「観察し、想起し、予測する」責任と「伝統や無媒介的な衝動以上に一層深く進む」勇気によって再度方向づけられねばならない。知性の導きによって、衝動は「客観的習性に体現され」ていく。衝動と知性は形而上学的な区分ではなく、習性の再構築のサイクルにおける機能的区分である。