続きです。

3、デューイの時代認識と教育に対する問題意識

デューイは自らが生きた時代のありかた、特に人間の在り方と社会の在り方を、「内なる光」を見失ったものとして痛烈に批判する。それが「失われた個人」であり、民主主義の頽廃である。

こうしたデューイの問題意識は、クルト・レビンにも著しく共通する。そして現代においてもそのまま当てはまるものと言えるだろう。逆に言えばデューイの教育哲学は、こうした時代へどう対処し、個人と社会を回復するかということを課題としている。そしてその流れを汲むラボラトリートレーニングもまた、それを教育哲学のベースにもっていると考えられる。

(1)いまの時代をどうとらえるか

<テキスト>

・「公共性とその問題」でデューイはアメリカの民主主義を批判した。彼が警告を発する「公共性の消滅」状況は政治参加の問題のみならず、「自分が本当に何を欲しているのか」がわからない状態である。個人的な存在感の弱体化が、公共領域での共通善の感覚の喪失に結びついている。資本主義における粗野な個人主義や標準化と画一化に苛まれたアメリカ社会において、人間が自分自身の魂の操縦者になる能力を剥奪されていく。これが「失われた個人」である。

この考え方は近代末期の民主主義と教育の運命を予言している。物質的豊穣さと政治的自由が与えられても加速する精神的頽廃が鎮められない。個人的な生活の仕方にかかわる次元が喪失されるとともに、民主主義それ自体が脅かされている。利己的な個人主義の傾向とともに、他者と未来への責任感は見失われる。私的生活の狭い限界を超え、他者にどのように手が届くのかがわからない。他者の否定が生じる。

アメリカ社会の悲劇的状況−人々が確実なよりどころをなくして漂流し、全体性の感覚を喪失させている状態−をデューイは嘆く。追従と標準化は、「内なる空虚さ」と「空洞」の感覚をつくり出す。恐れ、憂慮、不安が自尊心を浸食する。若々しい心の創発的衝動と独立性は、「大衆的な生産のベルコンベアシステムの一部となって妨げられ、抑えつけられる。デューイは「道徳的服従」状態の中で人間が鎖に繋がれ、「創造の条件である心の自由」を喪失することを懸念する。牢獄に入れられている状態は、もはや個人が斬新さと質的変容の瞬間とも言える「真正な時間」の責任ある創出者ではありえないような、危険な状態を示すものである。われわれは機械的で直線的な、そして平板な時間の繰り返しによって形作られる。

・もう1つの悲劇として、「内なる光」に対する忘却の中で、その喪失を想像することすらできない状態がある。われわれは無感動や無関心状態、あるいは究極的なニヒリズムの類いともいえる心地よい欲求充足の状態に埋没しており、「自分が本当に何を欲しているのかがわからない。それを見つけようと必死になることもない」

(2)教育の現状〜民主主義と教育におけるニヒリズム

 こうした時代背景の中で、「教育」も次のようにとらえられている

<テキスト>

・教育にかかわる最も深刻な危機は、公共領域の衰退と私的なものと公的なものの関係の歪曲である。教育実践は新自由主義イデオロギーと行為遂行性の言語で支配されている。効率性と効果の名の下に、標準化と数量化の手順によって支配される。安直な倫理概念が出現している。

・明確なひとそろいの目標によって測定される「卓越性」の動力は衰えることがない。適切な立案とは目的をはっきりと特定し、その実現のための手段を系統的に生み出すことを意味する。これによて計算と交換によって把握しえないものは教育から駆逐される。

・若者が学びに意味を見いだすことができないニヒリズムが蔓延し、学習を通じた解放の喜びを経験できない(方向性の喪失感、自信の欠如、孤立感)。現代の教育と民主主義の危機である。

・いまや学校は必ずしも学習の喜びを経験する場所ではないし、実存の感覚を再確認する場所でもない。まして自分自身の声を発見する場所ではありえない。教育は獲得すること、上げることにつての想定(標準を上げる、卓越性を達成する、善悪を教える、多文化理解の度を増すと言った呼びかけの形)に頻繁に駆り立てられている。そして皮肉なことに教師や生徒を至る所で苛む喪失感や関わりのなさの感覚が深刻の度を深めていく。そして蔓延する喪失感を覆い隠すように、教育改革では絶対的目標の希求が勢いを得ている。これは民主主義と教育におけるニヒリズムやシニズムの徴候である。