私たちは普通、「あなたはどなたですか」と問われた時、「大企業の社員」とか「大学の先生」などと答える。時には「お金持ち」や「妻」と答える人もいるかもしれない。つまり私たちは自分が「何者か」であるという考えや見方を持っていて、これで自分を他の人から区別している。これは自己概念と呼ばれる。

●こうした自己概念を持つことはとても健全なことだ。しかし私たちは時にこの「何者かであること」に囚われてしまい、そうでないと自分に価値がないように感じられる時がある。こうなると「何者か」でなくなってしまうこと、または「何者か」になれないことが私たちに悲しみをもたらすようになる。

●例えばわたしは大学卒業後、7年半勤めた銀行を辞め失業生活を送ったことがある。この時何より辛かったのは、人と出会った時に「名刺」を渡すことができないことだった。「××銀行の博野」と名乗る時には感じられたステータスや安定感が失われ、「わたし」の価値が半減してしまったように感じられたのである。

●この刻一刻と変化する世界では、他の人と比較してよりよい地位、役割を身につけたとしても、それを永久に保ち続けることは難しい。そのため自分がその「何者かであること」に執着する気持ち強いほど、それを失う悲しみは大きいものとなる。それは自分を損なうことすらある。

●また同様に「何者かであること」に価値を感じているほど、その「何者か」になれない悲しみは大きくなる。例えばよい学校や企業に入れない、管理職になれない、親になれない悲しみである。そして自分と比較の対象となる身の回りの誰かがその「何者か」になってしまったような時には、こうした悲しみはより大きくなる。

●ところでこうしたわたしとは違う、もう1つの「わたし」がある。それは「いまここのわたし」である。例えば「いまここ」で体が重いわたし、またはあなたに何かを伝えたいわたしだ。あまりに何気ないので私たちは日頃この「わたし」に目を向けることは少ないが、これは自分を大切にする上でとても大切なものだ。

●ラボラトリー・トレーニングでは基本的に見ず知らずの人たちが集い、話題も決めずに数日間過ごす。「決まっているのはメンバーと時間と場所だけです」と告げられグループがスタートする。つまり家庭や職場では何らかの形で固定化している役割や地位、関係性などが「真空」の状態ではじまる。

●従ってこのグループでは、私たちの日ごろの地位や役割、財産や持っている知識は全く関係がないし役に立たない。例えば日ごろ起こった出来事を論理的に分析し意思決定することを役割にしている「大企業の管理職」は、最初グループでも同じようにふるまうことが多い。

●しかし最初はその人の論理性やリーダーシップに敬意を払っていたメンバーも、グループが進んでいくと徐々に物足りないものを感じ始める。話題は進んでいくのだが、そこにその人自身が感じられないからだ。そして「管理職としてのその人」ではなく「その人自身」のことを知りたいと率直に伝えることが生じる。

●こうしてこの人は、「日頃の自分」のかかわり方が、グループでは全く通用しないことに気づく。そして困惑しつつも管理職としてではない、その人自身のかかわり方を探し始める。これはとても困難な道だ。実際の場面ではいろいろな試行錯誤がなされる。それは例えば次のようなものだ。

●模索の中でその人は、「いまここ」でどうしてよいかわからず不安を感じている「わたし」に気づく。そして同時にそれをグループに伝えたい「わたし」がいることに気づく。躊躇しつつ勇気をもってそれを伝えてみると、それがグループから、「あなた自身に触れた気がする」と受け入れられていく経験をする。

●何かについての話題に較べ、こうした「いまここで本当に感じていること」を伝えられると、私たちはずっしりとした重みを感じる。なぜならそれが「その人」のいまここに「本当にあるもの」、つまりその人自身だからである。言い換えれば「いまここのわたし」とは、その人の存在そのものと言えるようなものだ。

●そして考えてみれば「大企業の社員」や「お金持ち」はたくさんいるが、こうした「いまここのわたし」は、唯一わたしだけのものである。他の誰とも置き換えることはできない。そしてこの「いまここのわたし」が他者に受け入れられることで、私たちは自分があるがままであってよいのだと感じることができる。

●こうして、わたしは他の人との比較の中で生きる必要はない、つまり何者かである必要も何者かになる必要もない、「いまここ」をあるがままに生きればそれでよいのだという「喜び」が湧いてくる。しかもこの「いまここのわたし」は仕事を辞めても、財産を失っても決して失われることはない。

●自分の役割や地位などを「脱ぐ」ことは、通常は人生の大きな転機にしか生じない。しかしラボラトリーでは、真空状態から始まる凝縮されたかかわりの中で、それを体験することができる。これによって「いまここ」をあるがままの存在として生きる喜びを思い起こさせてくれるのだ。

●このようにラボラトリーはわたしにとって、自らが築いた自己概念に固執して生きるむなしさを学び、「いまここ」で与えられるあるがままのわたしを生きるトレーニングであると言える。それはわたしにとって、生きるということをいつも「喜ぶ」ためのトレーニングになっている。