前回の続きです。ラボラトリーの教育哲学を齋藤直子さんの著作から考えています。

2、エマソンの「内なる光」とデューイの思想

 齋藤直子はデューイの詳細なレビューにより、体験学習のスタートをなすデューイの「衝動」概念が、エマソンの「内なる光」と密接な関係があることを論証した。またこの「内なる光」はラボラトリーでよく用いられる<いまここ>という時間と密接にかかわっている。

(1)エマソンの内なる光

<テキスト>
 エマソンは内なる光を直感あるいは本能と呼ぶ。それは内なる魂、自らの存在の感覚、「私である」ことの感覚、そして「心の統合性」を象徴する。これは精神的であるとともにプラグマティックでもある。それはどこか遠いところの実在にあるのではなく、日常のありふれた経験の中に、「差しせまる故につかの間の「今」のなかにあると述べる。

 エマソンは「内なる光」の可変的で予測不可能な性質を強調する。その意味はたえず行動の中で再発見される必要がある。「私の偉才が呼びかける時、私は父も母も妻も兄弟も遠ざける。私は私の扉に「きまぐれ」と書こう」(エマソン、1990)

(2)<内なる光>とデューイの「衝動」概念

<テキスト>
 エマソンの「内なる光」の視座は、デューイの衝動の思想を再活性化することを可能にする。知性の機能は、衝動を制御し方向づけることである。すなわち実験を通じた自然的変化の統御の方法と呼ばれる。また知性は能動的行動と関連づけられ、活動の結果に力点がおかれる。ここで知性が中心的役割を果たすように思われるが、「経験と自然」等の著書では、衝動に一層の力点が置かれる。

 デューイはジェームスの時間的な出来事としての経験は、知覚的局面と反省的局面の間のリズムからなるとする二面的経験の思想に影響を受けている。経験は「その原初的統合性において、行為と題材、主体と客体の区分をもたず、未分析の全体性の中で両者によって構成される」。これは知覚的で「前認知的」局面である。これをもとに反省の選別的局面が培われる。衝動は原始的な局面において主導的な役割を担う。それは経験のリズムと循環を始動させる。

 オーディンはミードの「I−me」の相互作用にふれ、「I」の生物学的側面が「me」の社会的側面に比して「進化の過程における創造性、新奇性、自由の源である」と主張する。「I」は「内なる光」に象徴される、原始的で自発的な衝動に対応している。

 衝動を通じてわれわれは、生命と直につながれる。有機体は「知覚に身を委ね」対象に完全に「浸透した」状態で世界への徹底した「参与」あるいは直の住み込みを経験する。デューイはこの状態を「我が家」の隠喩で記述する。我が家にあるという原始的な感覚、すなわち内なる調和の記憶は、区分し反省する過程を開始した後ですら「基層として残り続け」あるいは「意識下の深み」の中に残り続ける。

 「そのような時には、多かれ少なかれ風が思うままに吹いているような性質がある。同じ対象が存在している場合ですら、風がやってくることもあれば、やってこないこともある。それは強いることのできないものである」(デューイ、1987)

 このように予測不可能で移り気に到来するという点でエマソンの気まぐれに類似し、人間の身体に起源を持ち、「発声を要求するざわめき」と関連づけることができる。ロック的な経験主義の意味での衝動に与しているという解釈はよくみられる誤読である。デューイは衝動の力が自己を信頼する思考の原初的な源であるという考えをエマソンと共有している。

「あらゆる進歩は、植物の芽のように開花する。植物が根と芽と果実をもつように、まず最初に本能を持ち、それから意見、そして知識を持つ。本能を終わりまで信頼することによってそれは真実の実を結び、何時は己の信仰の理由を知るであろう。」(エマソン、1990)

 衝動を制御する機能としてデューイが典型的な形で記述する科学的な知性概念は、「内なる光」という視点から、より広義な意味を持つものとして再構築することができる。「内なる光」の本来の性質に忠実なものとして知力は能動的であると同時に、受容的でなければならない。思考とはエマソンが述べるように、存在の感覚を受容させてくれるものである。

 「思考は敬虔な受容である。何を考えようとするかをわれわれが決めるのではない。ただ感覚を開き、事実からのあらゆる障害を出来るだけ取り除き、知力に黙して見させるようにしさえすればよいのだ。」知力によってわれわれは自然の全体性につながれる。

 エマソンによるカントの逆転は知識の知的領域を受動的・受容的なものとして描き、直感的・本能的領域を能動的・自発的なものとして描いている。カベルはこれをハイデガーの「思考することとという贈与」に感謝することに結びつける。エマソンの思考は一方で「立ち止まって思考すること」、被ること、存在の感覚に感謝すること、他方においては「限りなく拡大していく円」の中で去り、動き続けることというリズムを持つ。受容性は進行する成長の種をまく。

 このように「内なる光」によって知性の広義の意味が可能になり、その中でデューイの成長概念は一層ホーリスティックなものになる。
(4)内なる光と<いまここ>

<テキスト>
 エマソンはバラの隠喩として次のように述べている。「窓の下のバラは、以前のバラや、より優れたバラに言い及ぶことはない。バラは、あるがままにある。今日、神とともに存在している。バラに時間はない。ただバラがあるだけである。それは実存のすべての瞬間において完全である。
 しかし人は先延ばししたり、回顧したりする。現在に生きることをせず、後ろ向きの目で過去を嘆き、自分の身の回りの豊かさには目も留めず、未来を予測しようとしてつま先立ちになる。人もまた自然とともに時を超えて現在に生きるまでは、幸福で強靭ではありえない」

 デューイは<今ここ>でのみ十全に生きられ経験されるような時間について、エマソンに通ずる感覚を共有している。そのような瞬間に人間が「世界との活動的で機敏な交わり」のなかにあり、あらゆる感覚が「高まった活力」を持つ警戒状態にあると述べる。

 この新しい瞬間に過去に作られた軌道は、可能なる未来への通路を見いだす。それは踏み固められた轍からでて、未知のものへと自分自身を投げ出そうとする、ある種厳格な断固たる意志を伴う。これは去る勇気、放棄する勇気、「新しくよりよい目標に向けて新しい道を創る力と勇気」を表明する。

 時間的継続性の中での発展というデューイの思想は単に直線的な前進、反復、あるいは以前存在したものの「再配分、再配置」ではない。それはエマソン的な非継続性の瞬間を必要とする。これは彼は「裂け目」としての「真正な時間」、継続性の中の「亀裂」、「決定的転機」の瞬間と呼ぶ。この時間概念のもと、彼は「真正なる個性」概念を導入する。

 真正な時間を生み出す変化の質は、「個人としての個人」が生み出し得る予測不可能な新奇性にかかっている。これは個別化の瞬間である。デューイは決定主義に対する要塞として、開放的宇宙の創造において個人的要素が果たす不可欠な役割に関するジェイムスの思想を認めている。ミードにおいてもこの跳躍の瞬間を可能にするものは「柔軟で開放的な衝動概念」であるとされる。