このシリーズの最終回です。

 もうデューイの時代から、今ラボラトリーが大事にしたいと思うことが構想されていたのだと感じます。

5、デューイの教育

 こうした哲学の上にデューイは<何のために><どのように>教育実践を実現するかを構想する。それは「内なる光」の道のりを妨げるものへの闘争として描かれる。そしてその方法は「コミュニケーションのアート」と名付けられるが、驚くほどラボラトリートレーニングの実践と類似している。

(1)教育のビジョン〜何のための教育か

<テキスト>

・今求められる教育のビジョンとは「人間の魂の教育」である。ニヒリズムの時代における終わりなき人間の完成と内側からの文化の再活性化のために実践的で倫理的性向である「教育としての哲学」が必要となる。これは進行する過程であり、普遍的、全体的なものを模索する過程である。この精神的希求を取り戻すことが創造的民主主義=生き方としての民主主義の課題となる。

・個人の喪失に対するデューイの悲劇の感覚は、彼の社会・文化的批判に浸透している。これは「内なる光」の道のりを妨げようと企む諸力に対する闘いの宣言である。私の社会の再構築に貢献し参与するのが「私」であることに、人はもはや確信できなくなった。これは一人一人の精神的危機でもあり、再生の予見力の喪失という意味で文化全体の危機でもある。

(2)起源としてのアート

<テキスト>
 後期デューイの「経験としての芸術」で、枯渇したエネルギーと創造的活力を回復させ、前向きに生き、「この世の驚きと見事さ」を再び経験する上で、美的感覚とイマジネーションの「再教育」が鍵であると述べている。人間の完成に仕える教育は、今や表現と行動を通じて「内なる光」を開放する営みとして再構想される。

 経験のリズムは「存在における安定したものと不安定なもの、固定されたものと予測を超えた新奇さ、確実なものと不確実なものの入り組んだ混合」というデューイの形而上学と背中合わせである。美的経験は、この混合状態における諸力の相互作用を通じて、「沈滞としての安定性ではなく、リズミックで発展的な安定性」を生み出し続けていく営みである。それは調和に特徴づけられる自己と世界の「相互浸透」状態である。均衡に向かうという意味では1つの終結であり、同時に環境との新たな関係の創始期でもある。

 経験のリズムと相互作用に特徴づけられるすべての経験は「起源としてのアート」である。美的なものの敵は実際的なものでも、知的なものでもない。敵は倦怠であり、締まりのない不活性状態であり、実践と知的手順における慣習への服従である。

 見てはいるが感情を持たず、聞いてはいるが報告を聞くだけであり、触れてはいるが表面だけでその下におりていく諸感覚の質と融合することがない状態、見慣れたものが無関心を誘発し、偏見がわれわれを盲目にする状態−「日常経験」と呼ばれるものは、しばしばこうした形で、無力、倦怠、単調さ、ステレオタイプ、そしてある種の抑圧に特徴づけられる。こうした疎外状況から自己を回復し、今あるこの日常世界の内に驚嘆の感覚とともに参与し直すこと、これがデューイの美的経験論を貫く課題である。

 それは美的経験を通じた世界との交わりの中で、喜びに満ちた知覚を回復し、ありふれた共有世界を十全に経験できる力を活性化し続けるという実践的課題である。

(3)知覚の性質

<テキスト>
 ここでは知覚が重要な役割を担う。彼の知覚は目で見て、頭の中で認識するという主客二元論を覆すもので、知覚は脳、感覚器官、筋肉系統といった生物の全存在が連関しながら道具として機能するプロセスととらえられる。また知覚はデータを受容するだけでなく活動性を持つ。「多様な感覚運動エネルギーが調整されて、初めて風景や対象の知覚が成り立つ。」

 調和と不和のリズムからなる美的経験において、感情は心の内でそれ自体完結したものではなく、「状況に包み込まれたもの」である。経験のリズムという観点から見れば、感情は「意識的な亀裂の徴候」であり、不和の状態から統合の回復の欲求によって、感情は調和を実現する条件としての事物に対する「関心」へと転換される。

 またこの美的経験において、衝動は必要から生まれ、「どこに向かうか知らない経験」を出発させる。そして環境と事物から受ける抵抗と抑制によって、直接的な前進行為が「反−省」(リフレクション)へと転換される。衝動が表現に至るまでには「動揺と混迷状態に投げ出される」必要がある。

 更に衝動は美的経験において全体的ビジョンやイメージを形成する知覚の働きにもかかわる。

 デューイは知覚することは認識以上のものであると述べ、時間性を含意している。それは歴史性を持つ。「過去は現在の中に運び入れられ、現在の内容を拡大し深める。また知覚には現在性がある。「いまここ」において衝動は蓄積されてきた古き素材を再活性化し「新しき生命と精神」を与える機能を果たす。これは「再創造」の作用であり、「新しきものと古きものの結節点」たる現在性、知覚の現在進行性を示すものである。

 また知覚には未来性がある。最初にやってくるイメージ、ビジョンの全体性の感受においてその地平の境界は必ずしも明瞭に定義されていない。知覚は境界の向こうを予見しながらある種の「一貫性」を前へと生み出し続けていく。

(4)衝動とイマジネーション

<テキスト>

 エマソンの内なる光と同様、デューイの衝動の思想は、よりよきもののビジョンを前向きに投機する役割を果たす。衝動の力が「イマジネーションの創造的運動の出発点」を構成する。

「新しいビジョンは無からやってくるのではなく、可能性の観点から見ること、すなわちイマジネーションの観点から見ることを通じて立ち現れる。つまりあたらし目的に仕える新しい諸関係の中に、古きものを見ることである。新しい目的はその創出を助けるのである」

 この最初のビジョンの明瞭化と実現には、今ここで進行する行動が必要とされる。ビジョンは生活様式に落とし込まれ具体化される。

 「われわれが、まだ生まれていないものたちとともに埋め込まれている因果の共同体は、イマジネーションが宇宙と呼ぶ所の神秘的な存在の全体性の、最も広く最も深遠な象徴である。それは、知力が把握し得ない実存の包括的範囲についての感覚と思考を具現するものである。それはわれわれの理想的希求が生まれる母胎である。それは指示的基準としてまた形成的目的として、道徳的イマジネーションが投機する諸価値の源である。

(5)教育の方法〜コミュニケーションのアート

<テキスト>

・教室はある意味で覚醒と想起を通じた「内なる光」の相互発見の場となる。こうした相互完成のための環境をいかに創りだすかを考える上で、デューイによるコミュニケーションのアートという考えは、妥当な出発点となる。「民主主義と教育」で彼はコミュニケーションが成長の条件であるという見方を提示する。

・後期著作ではコミュニケーションが単に技術や手段にかかわるものではなく、むしろ民主主義共同体を創造するためのアートであるという思想が展開される。

・友人の間の会話には、知識の対象としての他者理解や、自分自身の視点で他者を枠づけること以上のことが必要とされる。むしろそれは異なる他者に注意を向ける相互学習に関わることである。他者の差異に開かれていることは、自分自身の思考の構造の一部として他者の生を受容することを意味している。他者の受容は、自己を超えるものに自分自身を解放する上ではずみを与える。この会話のアートは教室の内側から世界理解の教育を達成する鍵を教師と生徒に与え得る。

ニヒリズムの時代における教育への挑戦は、異なる他者の顔と声に自らの目と耳を開くことによって、自らの思考枠組みの硬直性を解体する変容経験をいかにして可能にするかということである。

エマソンの完成主義の教育には広義な意味での翻訳が必要とされる。エマソン的詩人の翻訳者は不確実性に直面する中で忍耐する勇気を持たねばならない。そして徐々に共通の焦点を探し求めていく。それを通じて対話の双方の当事者は世界を再び知覚し、うまく行けば相互のアイデンティティを変容することができるかもしれない。詩人としての翻訳者は論争、攻撃的な説得、問題解決、道徳的弾劾によってではなく、互いに学びあう様式を通じて多様性の中に共通のものが見いだされ得ることを知っている。

・完成主義の教育は、善悪や正邪の絶対的区分をこえて、復讐や仕返しではなく悲劇的なものを超克しようとする。それは超越のアートである。忍耐づよい対話を通じた、よりよきもののプラグマティックな模索であり、苦難と共存しそれを希望に転換するためのもっとも実践的で知的な方法である。

・「内なる光」を育む教育は道徳性概念を再構想する。これは単に個性の重視、自己教育の必要性、「心を育む」、自己完成、子ども中心主義を意味しない。これはデューイの社会的自己の理論の範囲を拡張し、ケアと他者性の倫理のみならず、自己信頼と自己超越の倫理にも向かう。これは世界から孤立した自己の「私」や自律的で合理的な自己の「私」の視点ではなく、領域の中にある中心をなす個別の自己たる「私」に依拠する倫理学である。

エマソンの完成主義の教育は親交の喜びとともに、「個別化の痛み」を通じて自らの単独性に出会うことを強調し、そしてこのことは自己の内外に他者性の視点を獲得することによってのみ行われる。これは予測せざる可能性に開かれていること、自己のさらなる感性への希求を必要とする。これは自己増長や耽溺でなく、他者との対面が突きつける挑戦に身を投ずるような自己超越を通じて実現される。自らの限界に出会いつつ、互いを照らしあい、強度を強めあうことを通じて、生を肯定するエネルギーは解放される。その行為と過程そのものに道徳性の意味は体現され、同時に発見されていく。これは利己主義と利他主義、自律性と他律性といった道徳概念の境界を超越する。ここには勇気が必要とされる。

(6)教育の方法〜自分自身の言語の発見

・美的転換を遂げる中でデューイは、詩人の教育が民主主義の条件であるということを示唆している。それは特別の才能を持つ人の活動ではなく、われわれひとり一人が民主主義の創設者として、自分自身の言語を発見できる可能性である。詩は生活の批判であり、予見的光と想像力によって世界を新たに構想させてくれる。また詩は論破したり主張したりすることによってではなく、「ささやくこと」によって開示を通じた変容力を行使する。

 詩は「偏見を取り除き、見ることを妨げる曇りを取り除き、欠乏と慣習による覆いをはぎとり、知覚の力を完成させる」働きをなすゆえに、批判的であり、道徳的である。デューイは一人ひとりにおける詩人の教育が、内側から民主主義を完成するための条件であるということを示唆している。

(7)「内なり光」を覚醒しつづけること

.内なる光=美的、精神的衝動の象徴であり、在ることと成りゆくことの象徴。「内なる光」によって取り戻される個人は、デューイが構想する新しい個人主義の表明である。ただこれは内にこもった超越論ではない。この光をともすためには他者との邂逅が必要とされる。