●「ゆるす」ということは、私たちの生きるあり方に大きな影響を与えている。例えば「自分で自分をゆるせない」場合、私たちは自分を肯定したり、価値あるものと感じたりすることができなくなってしまう。その結果、自分らしくあるがままに生きることが難しくなる。

●わたしも学校を卒業し7年半勤めた銀行を辞めて家にいた時、周りの人(世間の人?)の目が怖くて昼間に外出を控えたことがあった。実際には誰も気にしていないのに、自分自身で「昼間から休んでいること」に罪悪感を覚えていたのである。

●私たちは生きていく中で、さまざまな経験を通じて「あるべき像」や「当たり前」を身につけていく。そして自分がこの「あるべき像」や「当たり前」に沿えていないと、自分はダメだ、価値がないなどと感じてしまう。つまり自分の中で葛藤や争いが起き、自分をゆるせなくなっていくのだ。

●その当時わたしは、自分の身の回りの世界で「当たり前」であったこと、つまり毎日きちんと勤めに出て仕事をするべきという「あるべき像」を知らないうちに身に着けていたのだろう。そしてその像にあわない自分を裁いていたのだと思う。こうしたわたし自身の中での争いが、わたしを苦しめていた。

●こうした「あるべき像」や「当たり前」は、自分を責める基準にもなるが、同時に相手を「ゆるせない」と感じる原因にもなる。例えばラボラトリー・トレーニングでも、メンバーが「トレーナーはこうあるべき」という「あるべき像」を持ち込むことがある。

●そしてトレーナーの言動を見て、自分が大事だと感じている「あるべき像」と食い違いが生じると、「そんな言動をすべきではない」とトレーナーを非難する。特にトレーナーの行動が、その人の「あるべき像」を崩してしまう可能性がある時、こうした非難は激しくなるようだ。

●ところでラボラトリー・トレーニングでは、グループの中に「いまここ」で起きてきたことを伝えあうことが生じる。そこではこうした「ゆるせない」という否定的な想いについても、勇気を持って相手に伝えることが起きる。トレーナーへの非難もそうした過程の中で起ってくる。

●そして同時にグループでは、こうした批判に対して他のメンバーが「いまここ」でどのように感じたかもわかちあわれる。そのため例えばこうした批判を過度な個人攻撃のように受け取っているメンバーがいること、さらにトレーナーの言動に対し好感を持っているメンバーもいることなどがわかってくる。

●こうして「ゆるせない」想いを抱いていたメンバーは、自分の「トレーナーはこうあるべきではない」という想いが、必ずしも全員にとっての「当たり前」ではないことに気づいていく。そして他のメンバーから「なぜそこまで言うのか理解できない」などのフィードバックを受けることが起きる。

●またトレーナーからも「何かわたしは一人の人間としてではなく、トレーナーという役割としてとらえられているように感じる」などのフィードバックが返ってくる。こうしてこの人は自分の「当たり前」を揺さぶられていく。なぜ自分がトレーナーをあれほど激しく非難したのかを考えざるを得なくなる。

●これは苦しい過程だ。大切にしてきた「あるべき像」や「当たり前」に沿うことで、自分に価値を感じていた人にとって、その「当たり前」が揺さぶられるということは、自分自身が揺さぶられるようなものだ。自分に価値がないように思えてくることすらあるかもしれない。

●こうした中、グループではこの人が「いまここ」で揺さぶられ、苦しんでいることに気づくメンバーがでてくる。そしてその気持ちに共感し受け入れていくことが生じる。つまり「あるべき像」に沿っているからではなく、「いまここ」で苦しみ揺れているあるがままのその人が受け入れられる体験が生じる。

●こうしたやりとりや体験の中で徐々に、自分がある種の「あるべき像」を持っていて、それがトレーナーによって揺さぶられたことが、「ゆるせない」ことにつながっていたことに気づいていく。そして例えば昔の私がそうであったように、それが自分自身をも縛り苦しめていることが見えてくる。

●よく考えると私たちは身の回りの世界にうまく順応するために、社会人として、あるいは妻として、さらにリーダーとして「あるべき像」を演じて生きていることがある。そしてそれを演じていないと自分が受け入れられないと思い込んでしまい、最後にはそうした姿を演じていることすら忘れてしまう。

●一方ラボラトリーでは、ゆるせないなどの気持ちも含め、「いまここ」で感じたことを伝えあうという正直なかかわりが、それぞれのメンバーの気づきにつながっていく。こうした体験からメンバーは周りに適応するために「あるべき像」を演じる必要のないことに気づいていく。

●つまり不完全で間違いの多い自分であっても、いまここでの「あるがままのわたし」でいることが、最終的に自分やグループのためになり、グループに受け入れられることを知る。そして自分が「あるべき像」になれなくても、それを無理に演じなくても「あるがままの自分」でよいのだと認めることができる。

●こうして私たちは自分をゆるすことができる。責められたり、評価されたり、時には非難されたりしても、自分をゆるし、いまここでわき上がってくるものでかかわっていく。こうしたラボラトリーの「いまここに生きる」トレーニングは、わたしにとって自分と他者をゆるすトレーニングになっていると感じる。