私たちは誰でも自分なりのかかわり方や物事のとらえ方、行動・反応の仕方などの特徴やクセを持っている。そしてそれはひとり一人違う。この違いは私たちの持ち味にもなるが、同時に私たちの間の相互理解を難しくし、時には分裂を引き起こす要因になる。

●自分のことを考えても、考え方やとらえ方があまりに異なる人とかかわりあうのは難しいと感じることが多い。例えば自分ではいい仕事ができたつもりでも、他の人がそんな風に思ってくれない時、がっかりした気持ちや怒りが湧いてくる。「価値観が違う」とその人のことを切り捨てたくなる。

●こんな風に自分とは違う物事のとらえ方、行動・反応の仕方をする人と日常的にかかわる必要がでてくると、私たちはその人を嫌い、対立や葛藤を引き起こしてしまいがちだ。私たちはどうしたらこうした「違い」から来る「分裂」を乗り越えることができるのだろうか。

●ところでラボラトリー・トレーニングでは8人〜10人くらいで話題を決めず話し合う「Tグループ」を行うことがある。そしてその中にももちろん、自分と物事のとらえ方、行動・反応の仕方がずいぶんと違うように感じる人がいる。日頃であればかかわりを避ける選択をしたくなる人もいる。

●しかしラボラトリーは、いまここで起こっている気持ちや想いなどを大切にかかわっていくトレーニングだ。このためこうしたメンバーともかかわる試みがなされる。つまり相手に対し、自分はその人と感じ方が違うこと、さらにはいまここでその人について感じた違和感などを伝えていく。

●例えばある時、どのメンバーに対しも支援的肯定的にかかわる人がいた。メンバーは当初とても感謝していたが、グループが進むにつれ徐々にその人のかかわり方へ不満を募らせていった。なぜなら、その人が自分たちに対し本当に一人の人として正直にかかわってくれていないと感じられてきたからである。

●そして何人かのメンバーから、「本当に自分のことを思ってくれているように思えない」、「何か一段上から、かかわられているような気がする」などとその人にフィードバックすることが生じた。これは伝える人、伝えられる人、見ている人皆にとってとても大変な経験だ。

●しかしこうしたかかわりの中で、私たちは自分のかかわり方や反応の仕方が、グループメンバーに「いまここ」でどのように感じられているかのフィードバックを得ることができる。こうして私たちは自分のかかわり方や物事のとらえ方、行動・反応の仕方のクセに気づくことができる。

●例えば自分は人に嫌われたくないために、感じたことのうち、よいことや肯定的側面だけを伝えるクセがあることに気づく。また自分が本当に感じたことをそのまま出してかかわることを恐れ、「支援者」としての役割をとって人にかかわってきたことに気づく。

●そしてそれが相手や自分のためによくないことにも気づいていく。こうしていわば自分の不完全さや弱さが白日の下に晒される。これはしんどい体験だ。これまで身につけたものが否定されるからである。時には自分に自信が持てなくなるときもあるだろう。

●しかしラボラトリーは、自分らしいよりよいかかわり方を探るための実験室でもある。こうしたフィードバックを受けたメンバーは、より自分と相手を生かすかかわりを模索する。そして例えば自分が感じたことを否定的なものを含め、正直に伝えようとするなどのトライが行われる。

●つまりメンバーはよりよいかかわり方を試し、メンバーからフィードバックを受けつつ新たな「私」を生きようとする。「いまここ」という時と場を共有するメンバーと共に過ごすことにより、自分のクセや特徴に気づき、発見し、再確認し、そして可能性を探り、新しい「私」を生きることを目指すのである。

●そして同じグループの中で、こうした取り組みを一生懸命に行っているメンバーを見ていると、その人と物事のとらえ方、行動・反応の仕方が異なるとか、それが好きか嫌いか、さらには価値観があわないなどは、ある意味どうでもよくなってしまう。

●なぜなら考えてみれば私たちは、生まれ持った性質と育っていく中で出会った身の回りの人々とのかかわりから、自分なりのかかわり方や行動・反応の仕方などの特徴やクセを身につけてきた。いわば私たちはすき好んでこうした特徴やクセを選びとってきたわけではない。

●そしてわたしもその人と全く同じように、弱さや不完全さを持ち、自分のかかわり方や行動パターンに悩み、よりよく「私」を生きるために苦闘している存在だ。そしてわたしが「私」をよりよく生きることができるようになるためには、相手の人の存在が絶対不可欠なものである。

●わたしにとってラボラトリーとは「いまここ」でかかわりあうことで、行動・反応の仕方などの違いを越えて私たちが、共に「私」をよりよく生きるためのトレーニングであると感じる。私たちがよりよく「私」を生きようと苦闘する存在である点で、私たちには「一致」があるように思える。