ようやくウィリアム・ジェームスの「宗教的経験の諸相」を読み終わりました。

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

 この本はその名の通り本当にいろいろな人々の宗教的経験を、1つ1つを大事に取り扱っています。そして宗教的経験は、それそれの人の与えられた資質や性質によって違うこと、しかしそこには共通の一般的経験があることを指摘します。

 それは「意識的人格は救いの経験をもたらしてくれるより広大な自己と連続している、という事実こそ、宗教的経験に関する限り、文字通り客観的に真であると私に思われる宗教的経験の積極的内容をなすものである」

 そしてこの共通の基盤の上に、各自の性質に則り、さまざまな信仰が生まれてくるというのです。

 彼はこういいます。

 「すべての宗教の母なる海と水源は、個人の神秘的経験の内にあります。すべての神学や教会主義は、上積された第二義的な産物です。そういう経験は、その経験をする当人の知的な先入観と容易に結びついてしまうのです。・・私は神秘的あるいは宗教的意識を、神託が侵入してくる薄い皮膜をもった広い識閾下の自己というものをもっていることに結びつけて考えます。・・識閾下の領域の周辺はまだ知られていませんが、それは先験的観念論によっては、私たちがその一部分と結びあっている絶対的精神として扱われ、キリスト教神学によっては、私たちに働きかける独特な神として扱われることができます。私たちの直接的な自己でない何ものかが、私たちの生命に働きかけるのです。」

 私はこの本から次のことを学んだような気がします。

1、宗教的に感じられる「大いなるもの」とのつながりの経験は私たち人間にとって非常に普遍的に存在している。だからそれを押し殺してしまうのは、私たちの人生を貧しくしてしまう。

2、またこうした宗教的経験は、1つの人間の経験として分析的に扱うことが可能である。特にプラグマティズムの観点から、それが私たちの行動にどう影響をあたえるかの観点からは科学的に分析できる。

3、ただその宗教的経験を、人がどのようにとらえるかは千差万別であり、どのように知的に理解するか(啓示を受けた、神が現前された・・)もその人の資質によって変わってくる。また宗教的経験の形自体もその人の性質によって変わってくる傾向がある。

4、こうした宗教的経験を知的に理解したことをベースに神学や教会が作られる。なので、これはその理解の仕方によってさまざまなものが生み出される。(ただ自分はそれが真であると想いやすい)

 こうしたことは、ラボラトリーの生で私自身が感じていた大いなるものとのつながりが決して「おかしなもの」でないことを教えてくれます。それどころかメンバーが感じるこうしたつながりをいかに大切にできるかが大事だと気づかせてくれます。

 また「教会」とかかわるということがどういうことか、「他の宗教」とかかわることがどういうことかも教えてくれたような気がします。

 宗教が戦争を起こしやすい理由もここにあるのでしょうね。この本は私たちが「自分たちだけが絶対正しい」という原理主義に陥ることを防いでくれる力を持つと感じています。