また経験は、個人の内側だけで進行するものではない。そして真の経験はその経験がなされる客観的条件をある程度変化させる積極的側面を持つ。またどのような環境が成長を導くような経験をする上で役立つかについて認識が必要となる。教育者は価値ある経験の形成に寄与する環境をどのように利用すべきであるのかを知る必要がある。

経験と教育 (講談社学術文庫)

経験と教育 (講談社学術文庫)

●このように教育される個人に内在する主観的条件に、客観的条件をかなり組織的に従属させるような教育計画を立てることは可能だ。この時外部からの統制によって個人の自由を制限しない形で、客観的要因が重要性を持ってくる。経験というものは、経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験である。

●しかし赤ん坊が泣いても何時でもミルクをやるわけではない。客観的条件は赤ん坊の直接的・内的な条件に従属させられるのではなく、赤ん坊の直接的・内的な状態との間に特殊な種類の相互作用がもたらされるように秩序づけられる。この「相互作用」が、経験の教育的機能と能力について解釈する第二の重要な原理を表現している。

●伝統的教育は外的条件のみを強調し、どのような種類の経験がなされたかを決定する上での、個人の内的要素に注意がはらわれていない。たとえば赤ん坊の教育のために食物・睡眠など経験を生じさせる条件を整備する責任は親にある。そしてその責任は過去の知識(医師、その他の)を利用することで果たされる。これが客観的条件による規制となる。

●個人が世界の中で生きるということは、個人が状況の中に生きることである。「なかに」の意味は、相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。環境とは、個人がもたらされる経験を創造する上での個人的な要求、願望、目的そして能力との相互作用がなされるための条件なのだ。

●こうして連続性と相互作用は、経験の縦と横の側面となる。個人が1つの状況からほかの状況へ移り変わるさいに、その個人の世界を取り巻く環境は拡張したり、収縮したりする。その個人は、別の世界に生きている自分を見出すのではなく、1つの同じ世界でこれまでと異なった部分、あるいは側面で生きる自分を見出す。

●こうして十全な形で統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。また十全な形で統合された人格は、相互に関連する対象物の世界が構成されたときのみ存在する。このように相互に能動的に結合している連続性と相互作用は、経験の教育的意義と価値を測る尺度を提供してくれる。

●つまり学習者の内的条件(欲求、目的)と教育者の環境設定の能力が合致することが重要なのだ。伝統的教育の欠点は教育者が経験を創造するに際しての他の要素、すなわち教育される者たちの能力や目的を考慮しないことになる。こうして内的条件、環境条件との相互適応が欠如していく。

●このように学校教育は「自己の経験から学ぶ」という貴重な才能を潰している可能性がある。自分の経験から、その経験の中にある自分のためになるすべてを獲得することが重要だ。つまり我々はそれぞれの時点において、それぞれの現在の経験の十分な意味を引き出すことで、未来においても同じことをするための準備をしている。

●ところで未来への準備が目的に転化してしまうと未知の将来のために現在を犠牲にすることが起きる。つまり現在の経験に対して責任をもたなくてよい教師が生まれる。ここでは将来のための事実上の準備は失われる。現在の学びが無い時、将来はない。教育は常に現在の過程でなければならない。

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かかわり方の学び方講座基礎編

http://www.maholo-ba.jp/