「いまここのあるがままでのこのわたしを生きること」を大切にしたいと考え、まほろばプロジェクトをスタートさせました。

 「わたし」という場合、まず「わたしは優秀な社員だ」、「わたしは、(講師だし経験もあるから)大勢の前でも平気だ」など、自分は「こんな人」という考え、見方を意味する時があります。これは「自己概念」と呼ばれ、過去に周りの人に言われたこと、評価されたことや出来事を自分で解釈したこと、こうありたい(あるべき)という想いから生まれてきます。

 この自己概念は自分を他の人から区別していく大切な役割をもっていますが、わたしたちが、こうした自己概念を生きる(自分の存在意義を自己概念に求める)限り、自分をかけがえのない、唯一の、尊厳を持つ存在として自分をとらえることは難しくなります。

 「大勢の前で平気な講師」、や「優秀な社員」がたくさんいるように、自己概念はどんなに優れたものでも、自分だけの唯一のものではなく、「置き換え」の可能なものだからです。ですから「自分探し」でどのような自己概念を探し求めても、そこに正解はないでしょう。
 
 一方「わたし」にはもう一つ「いまここのわたし」(「いまここのあるがままでのこのわたし」)があります。これは、「わたしにいまここで生まれ起きてくること」のことです。例えば「いまここで」ちょっと不安な気持ちがわいてきているわたし、まだ言葉にはできないけど色で表せばブルー、形で表せば△のわたしなどといっていいでしょう。
 
 こうした「形で表せば△のわたし」はありのままのわたし、生きているわたし、他の誰とも違うわたしといっていいでしょう。これは世界で唯一の、置き換えることのできないわたしです。言い換えれば私たちはこの、「いまここのわたし」を生きているからこそ、かけがえのない人間としての尊厳を持つ存在となると言えると思います。そしてこのわたしは、自分の意志とは必ずしも関係なく、いついかなる時にも「いまここ」で与えられ、決して誰も奪いさることはできません。

 ところで、自己概念はわたしについて自分が解釈する中で生まれてくるので、「いまここのわたし」とはズレが生じてくる場合があります。例えば「わたしは、(講師だし経験もあるから)大勢の前でも平気だ」という自己概念に縛られてしまうと、いまここでちょっと「不安を感じているわたし」から目を背けたり、ムリに明るくふるまったりすることがでてきます。

 これは自分が「いまここで与えられたわたし」を100%生きることができなくなっていることを意味します。つまり「いまここのわたし」を生きるのではなく、「優秀な講師としてのわたし」を生きることにつながります。こうしたことは学校や家庭、組織においてある種の「役割」や他者からの「期待」を背負っている時などに起こりがちなことですし、必要なことでもあります。

 ただこれが行き過ぎると、私たちは意識しないままに、世界で唯一の、置き換えのできない尊厳を持つ存在としてのわたしを失ってしまいかねません。最悪の場合、自分を何かの機能を果たす道具や機械のように考えてしまうことにつながりかねません。これはわたしを大切にする道ではないと考えています。

 そしてもし自分を機能としてとらえてしまうと、その人は例えば「いまここでちょっとわたしに違和感を感じているあなた」に関心を持たず、そんな違和感を大切にしようとしないでしょう。つまり「ありのままの、生きている、わたしと違うあなたを大切にしようとしない」ことにつながります。

 一方「いまここのわたし」に気づき受けいれ大切にしている人の場合、「いまここのあなた」についても気づき受けいれようとし、それを大切にしようとするでしょう。これが他者の存在や尊厳を大切にすることにつながります。

 こうしたことからこのまほろばプロジェクトでは、「いまここのあるがままでのこのわたしを生きること」を大切にし、それを支えあう場も大切にしたいと考えています。つまり役割や期待などを背負いつつも、同時に「いまここのわたし」に気づき受けいれ大切にし、ありのままの、生きている、他者と違うわたしを大切にできる場を共に支えあっていくことができればと願っているのです。