今日は「身体のゼロ地点」と言う言葉について考えています。

これは西平直さんの

世阿弥の稽古哲学

世阿弥の稽古哲学

という本に出てくる用語で、能の稽古にまつわる観世寿夫氏の発言に即して言われています。

能の稽古ではまず生身を濾過すること、役者の生身の感情や欲望を濾過してしまう=自分を澄み切った身体にしてしまうことが重要だとされます。これは生身の個別性を無化し、抽象化する作業ですが、これによって初めて役柄の中で「役者その人自身の存在感」がにじみ出るそうです。西平はこの生身を濾過した透明な身体を「身体のゼロ地点」と呼んでいます。

私自身はラボラトリートレーニングを行う際に、いろいろなかかわりが起きる中で、一つ一つを終わって、元の位置に戻ることの重要性を感じてきました。過去の出来事から生まれる印象や感情を引きずっていると、「いまここ」で起きてくることに応答しにくくなりますし、へたをすると頭の中で作り上げた「その人像」に対して反応してしまうことが起きかねません。

それらを「濾過」して「いまここ」に応答できる瞬発性を保つ必要があるような気がしていたのです。そこに名前はなかったのですが、この「身体のゼロ地点」という言葉は、ラボラトリーを行う時に使えるなあと感じています。