今鈴木大拙の「禅」を読んでいます。

 特に禅が言葉になる前の「動き」に焦点をあて、それを言葉という道具で「わけない」で一体として感じ、その中で生きるという考え方が、ラボラトリーでいう「いまここ」とほぼ同じ考え方なのではないかと感じました。

 昔の文献を見てもラボラトリーと禅には共通性が指摘されていますが、本当にそのように思います。また鈴木大拙キリスト教との比較も行っていますが、「いまここ」を大事にする所から生まれてくる信仰は、本当に生きたものになるのではないかと感じさせられました。

 昔トライしたときは難しく感じましたが、今読むと比較的理解しやすく書いて頂いているように感じます。