日本の教育人間学に大きな影響を与えたとされるロートの『発達教育学』を読んでいます。この中でロートが発達を促し形成する諸力、諸過程として3つの区分をしているのが印象的でした。

第1は成熟過程で、1歳になると直立できるといった生物学的な発達過程です。しかし人生の初めの時期からその成熟過程に学習過程が関係してきます。赤ん坊がお母さんが来たら微笑むという行動を学習するのがそれにあたります。これが第2です。そしてロートは人間を創造的にする働きを持つ「創造過程」をこの成熟ー学習過程と区別し第3とすることを提唱しています。

またロートは、文化人類学の知見として、3000以上の異なる社会・文化が発達している現状を見て、人間(人間の発達)が極めて柔軟な可塑性に富んでいることを論じ、発達の目的は当該社会・文化の現状に依存せざるを得ないことを指摘します。例えばロートが現代社会の教育の目的として挙げるのは自立的な意思決定能力であり、問題解決能力です。

しかし彼は社会・文化自体の創造も視野におさめていました。引用すると「われわれの社会的、道徳的および政治的行動基準もまた習得されたものだということであり、認められうる新しい行動の可能性のためにそれらが新しく自由自在に利用されるべきである場合には、それらの行動基準も人間の進歩の方向に向けて変革するために破棄されなければならない」

その上で、彼は創造過程の重要性を指摘します。これは、人間がその潜在能力を自己実現を通して完全に機能する人格へと開花させる傾向であり、そのために自分自身で自分を教育していくことができるということです。それが社会・文化の創造につながっていきます。従って教育の目標は、個人が自己教育と自己形成ができるようになることであると説いています。

ところで今の教育は、今の社会・文化への適応過程、つまり「社会化」をその目的として行われています。そして例えば遅刻を罰すると言う形で社会や文化の持つ価値観や感じ方、考え方を無意識のレベルに刷り込ませます。

これは社会の維持の側面からある程度必要だと思います。しかし残念ながら今の教育ではロートの言う「創造過程」は十分に教えていないように思います。

そしてこのことがいまいくつかの課題を生み出しているように感じます。まず中年期後半から老年期の成長という課題です。この年代はいわゆる社会の中核からはずれ、隠退する時期です。この時の課題は「脱社会化」であり、ユングのいう人生の午後の課題、つまり人生の午前に追いかけていた社会の価値観からはなれ、「個性化」していくことだと思います。

この時、私たちは「教育」によって刷り込まれた考え方や価値感を「脱ぎ捨てて」行くことが求められます。教育では社会で役立つことが目的として教えられますが、「脱社会化」する今、自分は何のために生きるのかを探る必要が出てきます。そしてそれをどのように実現していくかを自分で考え、模索し、生活を作り上げなければなりません。そしてこのことは肉体的衰えの中でできないことが増加する中で、行う必要があるのです。

これができないと、私たちは老年期の特徴としてエリクソンが挙げている「絶望」に陥ることになります。典型的なのは自分を「老後の人間」であり、社会から見捨てられ、役立たない人と感じるようになることです。

この時とても重要なのが、先ほどの「創造過程」、自分で自分を育てるという力です。この力こそ、自分を自分らしく育てていくための鍵であり、また個人の個性化を通じて社会がよりよい方向に変革することを助けてくれるからです。

ところでこのことは老年期にかかわらず、「脱社会化」や「個性化」が求められる時にはいつでも必要となることでしょう。失業、病気など転機が訪れた人には、まだ若い人にも「人生の午後」は訪れます。

そして私はラボラトリートレーニングがこの発達の「創造過程」を育む大きな力になると考えています。それは個性化の課題にも、社会をよりよい方向に変革する上でも重要なものなのです。自分が無意識に持っている考え方や価値感、そこから生まれてくる言動に改めて気づき、いまここのかかわりの中で、自分がありたい姿を見出していくのがラボラトリートレーニングだからです。これはいまの自分に不必要になった古い皮を脱ぎ捨てる作業にも譬えられます。

ラボラトリートレーニングのキーワードに「学び方を学ぶ」、「チェンジ・エージェント」があるのは偶然ではなく、この「創造過程」を担う教育であることの証だと思います。