体験学習(ラボラトリー・トレーニング)は一見簡単に提供できるように思えますが、少し間違えると人を傷つけたり、依存性を促進したりして、人を大切にできなくなる可能性を持っています。

 そのひどい例が「心をあやつる男たち」にでています。

心をあやつる男たち (文春文庫)

心をあやつる男たち (文春文庫)

 いまとは時代が違うので、こんなにひどい場合はいまはないと思いますが、それでも一歩間違うと似たような過ちを犯す可能性があります。

 わたし自身は本当に人を大切にするラボラトリーを提供するために、次のような安全や倫理基準を意識したいと思っています。

(1)ラボラトリーのねらい(何のために)
 
 「いまここで自分に起きていること」に気づき、受けいれ、大切にすること、また「いまここであなたに起きていること」に気づき、受けいれ、大切にすること、そして共に生きることを探るといったねらいが、常にラボラトリーの核になければならない。

 こうした核の上で、チームワークやコミュニケーションの改善、自己概念の変革などが生じることはありうる。また出会い、回心、存在の喜びを得ることができることもある。時には職場の活性化やリーダー育成も可能かもしれない。

 ただ核がズレると、操作的介入さらには、依存的人間を生み出してしまう。なぜならトレーナーの介入の基礎となる見立てを構成するベースになるのが「何のために」(ねらい)だからである。

 例えば短期間で企業戦士を育てることがねらいにあると、「グループのかかわりが生温い!」という見立てが生じ、メンバーのいまここを待たず、強圧的な介入が行われる可能性がある。

 これがラボラトリースタッフ全体に共有され実践されることが不可欠である。

(2)スタッフの人間観、ラボラトリー観

 同時にスタッフが上記のねらいに沿った人間観を持っていることが重要となる。これが見立てや介入の基礎となるからである。

(3)操作性と依存を起こさないトレーナーのかかわり方

 トレーナーは、できる限り上記のねらいを体現する形でグループにかかわることが大事に思える。これによって強制や無理にではなく、メンバー同士にいまここのかかわりが生じる。トレーナーも含めいま自分が感じていること、見えていることをわかちあい、フィードバックしあうことで、自分のクセに気づき新たな自分を試し、時には出会いやいまここの存在の喜びを得ることができる。

 もちろんさまざまな観点から見立ての道具を増やす(TA、ゲシュタルト心理療法・・)ことも重要だが、それは常に自分の憶測にすぎず、その枠の中にメンバーを入れると、いまここを逃しかねないことを知っている必要がある。

 枠に沿って見立て、介入することは、ある種の強制性を持っていると感じる。(人間としてより、1人の専門家になってしまう危険がある。常に「ただの人」としていまここにある必要がある)

 メンバーと見立てをわかちあい、メンバーのねらいに沿った形でメンバーの自己決定を大切にかかわることが重要となる。従って見立ての上手さよりもむしろいまここに気づく感受性、それを受けいれることのできる自己、相手とのかかわり、それを大切に動ける勇気などがトレーニングに必要なことと言える。また自分の自我(自分のためにしていること)に気づき、他者に指摘してもらい、修正できることが必要と考える。

 また時間的に急がないことことも重要である。短いラボだと「おみやげ」を持って帰ってほしくなるが、それはそのまま操作性につながる。自然の流れを信じ任せることを徹底する必要がある。

(4)体験と方法の認知化(現場適用)

 ラボラトリーの体験で、「いまここ」の喜びの体験がある場合などは特に、その危険性と日常での取り扱い方を認知的に理解してもらうことが必要である。これがある種操作的に行われることがあること、その破壊性と危険性について、ある程度の予備知識がいる。

 またそこに至るため、ラボラトリーでは「いまここで自分に起きていること」に気づき、受けいれ、大切にすること、また「いまここであなたに起きていること」に気づき、受けいれ、大切にすることという原則でかかわり、それがこの体験を生み出したこと、それは日常でも可能なことを知っておくことが重要である。