再び市民プロデューサーの時代へ

  • 「市民プロデューサー」という言葉をふと思い出した。この言葉は、1995年の阪神大震災をきっかけにNPOが社会的に認知されていく中で大阪ボランティア協会が開いた「市民プロデューサー養成講座」をきっかけに、NPO業界ではかなり流行した言葉だ。

 

  • 私もこの講座の4期生であり、その後数年スタッフも務めた。もともとこの講座は「市民活動仕掛け人講座」として企画されたが、言葉工房を主宰していたライターでこの講座の運営に深く関与した吐山継彦さんが、「市民」と「プロデューサー」という言葉の組み合わせの面白さに気づきネーミングされた。

 

  • 「市民プロデューサー」という言葉にはいくつかの意味が含まれる。まずこれにはボランティアや市民活動と同様、「ほっとけないからやむに止まれずする」という意味がある。さらに国や自治体、企業が手を出さないニッチな領域に自分から、わたくしから働きかける自発・私発的な活動ということでもある。

 

  • しかし市民運動とは異なり、ビジネスで必要な予算の立案、交渉、運営面もしっかり考えて活動するという含意もある。吐山さんはこれを「地球市民として地域に根ざし、アイディアとユーモアとネットワークを武器に、企業や行政にできない社会変革を、経済性をも無視せず造り出せる人」と定義している。

 

  • 私自身はそれまで会社勤めなどを中心に仕事をしてきたので、私発で自分の想いを大切に、事業を起こすということは考えもつかなかった。しかしこの活動に参加する中で、色々な人が自分の「やむに止まれない想い」を大切に、市場も資源も無視せず事業企画を立てていくのを見て考えが変わっていった。

 

  • そしてもともと私は経営関係のキャリアを持っていたが、ラボラトリーに触れる中で一人ひとりが大切にされる「チーム」が組織にもできたらどんなにいいだろうという強い思いに駆られた。そして「市民」+「プロデューサー」を真似て「チーム」+「経営」という言葉を作り事業として展開したのである。

 

  • 今から考えるとその当時の私の思いには、現実に即していない部分もたくさんあったと思う。その後仕事をしながら想いや運営面を修正していき、今も自分が心から信じることができ自分を動かす想いを大切に、色々な研修や組織でのサポートの仕事に取り組めている。

 

  • さてこうした「市民プロデューサー」を思い出したのは、他ならぬコロナ感染症の蔓延の中の社会状況を見ているためである。震災時に行政や企業では提供できないサービスの多くを市民セクターが担ったが、今またこの災厄の中でたくさんの必要性の高いニッチ領域が生まれてきているように思える。

 

  • 例えばまず心のケアだ。震災の時も被災地に多くの心のケアのボランティアが入ったが、今回は非常に多くの人々が大きなストレスにさらされている。感染への恐れ、同居している高齢者へうつさないかの不安、日常通り働くことを求める組織への対応、経済的不安、先の見通しが立たない不安・・。

 

  • また聞くところではニューヨークでは路上に廃材を使ってテーブルを設置し、コロナ対策のために飲食店が外で営業できるようにする取り組みがされているそうだ。こうした配慮を受けたお店は本当に嬉しいだろうと思う。さらに高齢者や外国人、子どもたちなどへのサポートも今ほど必要としている時はない。

 

  • 今私はつい行政に対し、「もっと・・してくれるといいのに」と怒りを覚えてしまうことが多い。しかしこのコロナがもたらす禍を軽減するためには、まず自分が持っているものをベースに自分発でできることをできるだけ提供することから始める必要があると再認識している。
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カミュの「ペスト」

  • カミュの「ペスト」を読むことができた。コロナ流行の中で今再び注目されていると聞いた時は手に取るつもりはなかったのだが、この本は実際にはナチス占領下の人間模様をペストに託して描いていると知り、にわかに興味が湧いてきて読むことにしたのだ。

 

  • 実際意外だったのは、この本の舞台が1940年代のフランス統治下のアルジェだったことだ。私は勝手に中世のペスト流行の時をイメージしていたが、ここでは電車や自動車が走り、電話や電報が利用可能な時代が描かれている。まさにナチスがヨーロッパを席巻していた時代だ。

 

  • 人口20万を数えるある街で、ネズミが大量死し、続いて人間が次々と熱病にかかる。しかし医者と当局者からなる会議は数々の証拠があるにも関わらず、「ペスト」であるという事実を認めることをためらい、中途半端な対策しか取れない。それがもたらす破壊的な影響を受け止めきれないのだ。

 

  • しかしついに本国からペストであることを宣言し、街を封鎖するように通知が来る。死者は急増し、毎日100人単位の人が死んでいく。そのピークはいつ終わるかわからないまま延々と続いていく。こうした中、人々が内面で抱えていたものが次々に露わになっていく様子が描かれていく。

 

  • 病疫のことを一瞬でも忘れたい人々による享楽の姿、非常に高価なものが惜しげも無く購入されていく様子、封鎖された街から逃亡することに熱中する人、ペストによって壊された日常を喜びをもって迎える犯罪人。神に全てを任せることを説く神父は病になっても医者にかかるべきではないと思想を深める。

 

  • こうした人間模様の中でペストは淡々とその仕事をし続ける。主人公である医師もまた淡々と日々仕事をする。死者のとり扱いは徐々にぞんざいになる。ペストが終息する希望は失われ、街の人も次は自分の番かもと思いつつ、淡々と日々を送る。極限状況のもたらす絶望にさえ人々は慣れてしまうのだ。

 

  • しかしある日突然にペストの勢いは失われる。そして大波は来た時のようにスッと引いていく。封鎖は解かれ電車が来て、離れ離れになった人との再会が祝われる。しかし街の人の喜びの中で、最後の引き波にさらわれてしまう人、別離の苦しみにいる人もいる。全てはもとどおりにはならないのだ。

 

 

  • 私はこれは「ペスト」について書いた本ではないと思った。むしろ災厄は何でもよく、それがもたらす極限状況が人々にどう影響するかの実験室を詳細に描いているように感じられた。そうした意味ではより壮大なラボラトリーと言っていいかもしれない。

 

  • 私が印象に残ったのは、こうした状況では日常では覆い隠すことができていたものが全て剥ぎ取られ、白日の下に露わになるということだ。極限状況では私たちは常日頃そうであったように「なる」。今この世界でも同じようなことが起きているのではないだろうか。

 

  • もう一つ思ったのが、主人公リウーの淡々とした強さである。恐怖に自分を見失うこともなく、治療が難しく大量の人が死んでいく姿にも意味を見失うこともなく、今目の前にある自分にできることを淡々とやり続ける。私にはその姿が今を生きる私に大切なことを教えてくれているように思えた。

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 

それでも私は「怖い」と言う

  • 今再び日本の多くの地域で新型コロナウィルスの感染者が増加している。4月ごろの感染者数より多くなる地域もあって、世論調査などを見ても多くの人が心配していることが感じ取れる。私自身も残念だが、毎年家族で行っていた温泉旅行をキャンセルせざるを得なかった。

 

  • こうした状況において、職場や学校に行く必要のある人々の中で葛藤が強まっているように見えている。普段通り働いたり、学んだりしなければならないというプレッシャーと、感染したくない、愛する人に感染させたくないというプレッシャーの板挟みが起こっているように感じるのである。

 

  • そして今私は、ウィルスが怖いという事実を認めること、怖さを感じて感染を避ける行動を取りたいと率直に言うことが難しくなっているように思う。端的に言うと「普通」の生活を危うくするような議論や意見を言いにくくする社会的な空気があるように感じるのである。

 

  • まず私が恐ろしいなと思ったのは、第一波の際ウィルスの危険性を強く主張してくれた北海道大学の西浦教授が、発言を非難され、公安警察に守ってもらわなければならないほどだったと言われていたことだ。こうした「攻撃」のせいか、今危険について警鐘を鳴らしてくれる専門家の声が届いてこない。

 

  • また私の住む大阪では知事が学校を一斉休校しないと宣言されている。つまりインフルエンザのように、ある程度の感染は仕方がないと考え、発生状況にあわせて学年単位や学校ごとに休校するに止めるのだ。そして今多くの学校では、分散登校もやめて、いつもの通り授業が行われている。

 

  • 他の組織に対しても同様の考え方がされていて、基本的に休業は求めない方向で行政は進んでいる。このゼロリスクを求めない「withコロナ」、「新しい日常」という考えを私は理解できるし、感染がある程度抑えられている状況では必要な考え方と言える。

 

  • しかし感染が再拡大する中では、この方針は下手をすると「普通」に生活を続けることへの圧力となる。例えばエアロゾル感染が確認された以上、閉鎖空間である地下鉄に一定の危険性があることは明らかだ。しかし「普通」を求められると、満員電車が怖くて通勤できないとは言えなくなる。

 

  • また学校に通う子どもたちの中には、三世代で暮らしている人、既往症を持つ人と暮らしている人もいるだろう。自分は感染してもリスクは少ないが、こうした家族に感染させてしまうかもしれない怖さは想像するに余りある。しかし「普通」であることを求められると、学校に行かない選択肢は取りにくい。

 

  • しかもこのウィルスは初めて人の世界に出てきたものなので、私たちの知識は十分ではない。例えばなぜ日本などのアジアで欧米に比べ感染者や死亡者が少ないのかの理由は完全には分かっていない。仮説の段階である。またエアロゾル感染が起こると言うことすらもようやく明らかになったばかりだ。

 

  • そしてある地域内で感染者が急増しエピセンター(震源地)化すると、エアロゾルが増え、空気感染のように広がるために、日本でもちょっと前のニューヨークや今のフロリダのような爆発的な感染が起こる可能性があると指摘する人もいる。今このウィルスに関する知見は日々刻々と更新されているのだ。

 

  • さらにこのウィルスは人から人へと感染を繰り返す中で今まさに変異の最中にある。スペイン風邪のように強毒化する恐れも当然ある。こうした中では私には警鐘を鳴らすものも含め、ウィルスに関するあらゆる最新の研究や知見に開かれ、それらをベースに柔軟な対策を打っていくことが必要と思える。

 

  • だから今、誰かが「普通」と言っていること、当然のように求めてくることを鵜呑みにするのはリスクが高いと感じている。そして私は今こそ自分の中に起きている「感染への怖さ」や「愛する人にうつしたくない」と言う想いから目を背けず、いつも以上に焦点を合わせていく必要があると感じている。

 

  • そして周りがどれだけ「普通」を求めてきても、「それでも私は怖い」、「それでも私は愛する人を守りたい」と勇気を持って伝え、行動することが大切なのかなと感じている。私や愛する人が感染してしまった時、誰も私の代わりに責任をとってはくれない。これは取り返しのつかないことなのだから。

 

対立を煽る人への関わり方

  • ふとした出会いで『危険人物をリーダーに選ばないためにできること』という本を読んだ。この本の著者ビル・エディは心理臨床を経験した後に弁護士となったが、数多くの現場で「対立を煽る危険なパーソナリティ」のために葛藤が起きていることを知り、そうした人への対処策を模索してきた。

 

  • そして彼によればヒトラーからスターリン、トランプに至る危険なリーダーの共通の特性が「対立を煽るパーソナリティ」である。国のリーダーにこうした人々がついたことで、何千万もの人々が死に追いやられたと主張し、こうした人物をリーダーにしない方法を本に書いたのだ。

 

  • 対立を煽るパーソナリティは4つの特徴を持っている。それは標的とした相手を執拗に非難する、何にでも白黒をつける、攻撃的な感情を抑制できない、極端に否定的な態度をとることである。そしてこのパーソナリティはソシオパス(支配欲・欺瞞・良心の欠如)とナルシストの特性に支えられている。

 

  • 彼らは自分が他者の上に立ち、権力を握るためにまず危機を煽る。それは架空(つまり嘘)のことも多いが人々の不安につけ込むものを選んでいる。そして誰かが悪者でその危機を起こしていると攻撃する。その上で自分だけがそれを救えると訴え、権力を持つ地位につけるよう人々を説得する。

 

  • 例えばこんな感じだ。「ドイツの不況などの危機はユダヤ人の陰謀のせいである。既存の政府は陰でユダヤ人に操られている。エスタブリッシュではない私だけがこの危機を救える」。著者はこうした人を「いかさま王」と呼ぶ。こうした人は私たちの身近にもいて、彼らが引き起こす対立に巻き込もうとする。

 

  • 私が自分の不安や不満につけ込まれると「いかさま王」は、私の代わりに危機を解決してくれるヒーローに見える。熱狂的支持者になり「敵」を攻撃するようになる。自分で考える必要はなくなる。ただ「いかさま王」は状況が変化すれば自分を支持してくれた側近でさえも攻撃対象にし簡単に切り捨てる。

 

  • 「いかさま王」には多数の反対派がいる。しかしまとまることができない。まず「いかさま王」に対し感情的に反発する人々がいる。しかし「いかさま王」の支持者は攻撃されたと感じますます結束していく。また同じ反対派の中にもその攻撃性に幻滅して争いから距離をとる人々が出てくる。

 

  • 穏健派は「いかさま王」を信じないが、彼が権力を握るためなら何でもし、権力を握ればますます分断を煽ることを理解していない。だから政策が一致する部分があれば「いかさま王」を支援してしまう。また「いかさま王」は対立に際限なく精力や時間を注ぐ。穏健な人は辟易して権力を彼に委ねてしまう。

 

  • 「いかさま王」はこうして反対派を分断し、自分の支持者が少数派でも権力を掌握する。そして際限なく対立を煽り、人々を分断し続ける。ただ彼が力を注ぐのは真の問題の解決ではないので、人々の生活を良くする方向には働かない。むしろ無駄な対立にエネルギーを取られ、集団の力は衰退していく。

 

  • 私も確かに対立を煽るパーソナリティは危険だと感じる。今のアメリカを見ていると分断で力が削がれている上に、新型コロナウィルスの災いを増幅させているように見える。例えば感染予防のためのマスクが、分断のための道具に使われ、多くの人がマスクを拒否し感染の拡大を起こしてしまっている。

 

  • ただ著者のようにこうしたパーソナリティを持つ人が決して変わらないとは思わない。難しいけれど体験から変わる可能性があると思っている。また全ての災いをこうしたパーソナリティを持つ人のせいにもしたくない。この人がもたらす災いを防ぐために私にできることがあるように思うからである。

 

  • ポイントは一人一人が心から自分のことを大切にするかどうかにあるように思える。例えば今ここで起こっている不安や怒りにありのままに気づき自分のものとして受け入れるなら、対立を煽るリーダーに感情的に操られることはなくなる。自分が攻撃されても、必要以上に卑下することもない。 

 

  • 事実を受け入れ自分で考えるなら、本当はそんな危機はないこと、それは協力によって解決できる問題であることに気づく。リーダーが悪者とする人々も、同じ人間として尊重することができる。心から自分を大切にする時、その人は対立を煽るリーダーが権力を握り、災いを招くことへの堤防となるのだ。

コロナの中で働く若者の葛藤

  • 新型コロナウィルスが再び蔓延を始めているが、単に数字が増えているというだけでなく、本当に身近に迫ってきているなと感じている。というのも私の子供は塾の先生をしているが、その塾の生徒が通う小学校で一年生の児童が新型コロナに感染したのだ。そして学校は消毒のため休校となっている。

 

  • 塾としても、同じ小学校に通う児童には自宅待機をお願いしたそうだ。ただ私の住む大阪では、コロナがある程度流行しても学校を閉鎖しないと知事が明言している。学校は消毒をして児童の様子を見つつ再開される方針であり、そうなると塾としてもそれらの児童を受け入れざるを得なくなってくる。

 

  • 感染者は重症化しにくい若い人に多いし、医療態勢も逼迫していないので4月とは状況が異なるとして、国や地方自治体は具体的な対策を打ち出していないように思う。確かに私の子供はまだ若いし、かかっても重症化するリスクが低いことは確かだ。むしろほとんど無症状で過ごす可能性の方が高い。

 

  • そして学校が通常通り開かれている中では、例えかなり感染者が増えてリスクが高くなったとしても、塾としても通常通りの授業を続けざるを得ない。また経営的に見ても、リスクを恐れて閉鎖することは考えられない。こうして働く人は、仕事をいつもの通り続けることを要請される。

 

  • しかしその働く若者には大切で守りたいと心から願う家族や知人・友人がいる。そしてその中には祖父母などの高齢な人、基礎疾患を持つ人もいるのだ。自分が知らないうちに感染し、無症状のまま例えば家庭に持ち帰り、祖父母を感染させ、重症化させてしまう可能性があるのだ。

 

  • もし私が自分の子供だったら、こんな風に感じるに違いない。確かに生活するためのお金を稼ぐ仕事は大事だし、特に今の雇用環境で仕事があるのはありがたいと思う。また子ども達を教えることにも意味を感じる。しかしもし自分が大切な人々に感染させてしまったらどうしよう。それは嫌だ、と。

 

  • 私は今いくつかのことを感じている。まず親の立場から私はこうした葛藤に置かれている子供には「真に自分を大切にする」という観点から選び、行動して欲しいと思う。どの選択にもリスクはあるが、こうして選んだのであれば、それが生み出す結果は、私としても恐れず受け止めたい。

 

  • そしてこうした葛藤は、私の子供一人のことではないだろうと思う。多くの若者に共通した葛藤のはずだ。しかし生活に余裕がない場合、つまり自分の収入で家族を養い、また生活に困窮しているケースでは仕事を辞める選択肢は取りにくいのではないだろうか。葛藤の中で働くしか仕方がないのだ。

 

  • だから災厄が起きた時、放っておくと最も被害を受けるのは弱い人(この場合は生活に余裕がない人)なのだと感じる。統計的に見ればリスクの中で仕事を続けた人の何%かは感染し、身近な高齢者などにうつしてしまうからだ。もしそれで愛する人が死んでしまったら、この若者には傷が残るかもしれない。

 

  • 今考えてみると、4月〜5月の緊急事態宣言は個々人の心の中の葛藤を国が引き受けてくれた側面があるように感じている。しかしそれも限界なのだろう。この葛藤が個人に投げ返された今、弱い立場の人だけにリスクを押し付けずに、私たちはどのようにそれに対処することができるのだろうか。

災厄を最低限に抑えてくれる「堤防」のような人々

  • 先日NHKの「英雄たちの選択」という番組で、現代に至るまで岡山を守る堤防を築いた津田永忠を取り上げていた。彼も未来に起こりうる災厄を防ごうとした人なのだなと感じる。そして彼の築いた堤を見ながら、洪水以外の災厄にもそれを防ぐ「堤防」に似たものがあるのではないだろうかと思った。

 

  • 災厄の中には津波や洪水の比喩で例えられるものがある。感染症や戦争はその代表例だ。恐らく溢れた時にコントロールがきかなく水のイメージから来るのだろう。ユング第一次世界大戦を予見し、血に染まった水がアルプスから北海へ津波のように押し寄せるという夢を見るようになった。

 

  • 全体主義などの席巻も自由と尊厳を脅かす津波のように感じられただろう。カミュの「ペスト」はナチス占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事の隠喩だといわれる。過酷な占領下では感染症の流行時と同じように、同胞同士の相互不信、刹那的な享楽への現実逃避が起きたのだ。

 

  • こうした極限状況をもたらす災厄に対して「堤防」としての役割を果たしてくれるものは何だろうか。私にはそれは人であるように思える。それも心の一番奥深いところでありのままの自分に対し、卑下や蔑視、絶望をしないでいられる人、つまり自分を心から大切にできる人であるように思う。

 

  • この新型コロナウィルスという災厄ではどうだろうか。この人は自分を大切にしているので、自分なんかどうなってもいいとは決して思わない。だから感染防止に必要な努力をするだろう。山中伸弥さんもいっていたが、3月中旬以降の日本人の多くがこの努力をした。

 

  • またこの人は事実に向き合っても自分が脅かされることはない。だから事実や科学的知見を受け入れることができる。新型コロナウィルスをただの風邪扱いせずきちんと恐れ、社会的接触を減らさなければ流行が避けられないという予測も受け入れることができる。それが感染拡大への堤防となるのだ。

 

  • 同様にこの人は自分と異なる意見に相対しても自分が脅かされることはない。だから冷静に議論し、協力して最もよい対策を探ることができる。またこの人は外的な要素によって自分の価値が貶められることはないと考える。だからマスクをすることが「男らしさ」を失わせるなどと主張する必要がない。

 

  • 自分をありのままに受け入れ大切にする人は、社会的地位や配下、「敵」の存在などによって自分の価値を保つ必要がない。だから他者を支配することやリーダー争いなどにかまけることがない。社会を分断し敵を作り貶める党派争いの必要もない。だから災厄への対応に全精力を注ぐことができる。

 

  • この人は他者もありのままに受け入れ大切にすることができる。だから感染症による死者をただの数字としてみたりはしない。人々の苦しみに共感し、その中で自分に今できることをする。また感染者や医療従事者を蔑視し、差別することがない。だから人々の協力関係を促進できる。

 

  • 信玄堤を築いた武田信玄は「人は城 人は石垣 人は堀」と言って堅固な城を築かなかったと言われる。未来の災厄においても同じことが言えると思う。つまりありのままの自分を心から大切にできる人々の存在が、いざという時に「堤防」のように働き、災厄を最低限に抑えてくれるのだ。

     

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新型コロナウィルスに対するリスクへの感度

  • 私はこの頃、新型コロナウィルスに対するリスクへの感度は一人一人違うなあと実感している。身近なところでは家族内での違いがある。4人家族の我が家では86歳になる母がもっとも大胆だ。あまり気にせず公共交通機関にも乗るし、外食もする。

 

  • 他の3人は母に感染させないように不要不急のリスクを避けた生活を続けている。だからリスク感度の低い母にがっかりしたりする。こうした違いは意外に根が深く、時に葛藤が起きるので我が家ではその都度家族会議を持っている。概ねうまくいっているが母からすれば、私たちは臆病に見えるようだ。

 

  • リスクへの感度は一人一人違っている。「怖さ」という感情への対処は個人差が大きい。情報の差もある。私はコロナについての新たな知見を日々集めているので、その怖さとリスクを実感できるし、第二波があることも確実視している。母はそこまでは情報処理ができていない。

 

  • また個人差だけでなく、家族構成やライフステージによっても変わってくる。高齢者や基礎疾患を持った人が家族にいる場合、妊娠中や小さい子供がいる家族ではリスクに対し敏感にならざるを得ない。身の回りの友人、知人を見ていても、高リスクの家族がいない人はより大胆に行動しているように見える。

 

  • こうした中、怖いなと思うのは同調性の圧力である。もっと正直に言えば、私はこうしたリスク感度の差を無視して、同じであることを求める動きに違和感を感じている。例えば少し前まで、微熱や軽い咳、下痢など少しでも体調が悪ければ学校や職場を休むことが大切だと言われてきた。

 

  • しかし今鼻風邪程度で休める雰囲気が再びなくなってきているように感じる。例えば授業で生徒が待っているのに先生として休めない、大切な仕事を放り出して会社を休めないという同調圧力があるように思える。この中でリスク感度の高い私などはもし他の人にコロナを感染させてしまったらと怖く感じる。

 

  • ラッシュ時の満員電車での通勤・通学はもともと嫌なものだった。しかしコロナの脅威のある今、リスク感度の高い人は毎日真に怖い思いをしている。そこに共感がない組織が通勤・通学を当たり前に求めると、働く人は道具のように扱われている感じを抱いて心が離れてしまう。

 

  • 逆にマスク着用、社会的距離などの「新しい生活様式」が押し付けられることにも違和感を感じる。私の友人が言っていたのだが、末期患者の看取りをしていると社会的距離があることで相手の言葉を聞き取れないことがある。またマスクをしていると、相手に大切な言葉を伝えることができないこともある。

 

  • 一般論としてよく日本は同調性の高い社会であると言われてきた。そこには良いところもあるのだろうと思う。しかしコロナへのリスク感度の違いには、そのベースに恐れという感情があり、本当に大切な人を守りたいという想いがある。だから同調圧力はその集団と個人の中に非常に大きな葛藤を生み出す。

 

  • 私とって大切なことはコロナ前の当たり前に戻ることではない。自分の中の恐れと大切な人を守りたいという想いに向き合い、その中でどのように人と関わり生活するかを自分で決めることだ。そしてこうした私を理解し、認め、支えてくれる人々や集団とより強固な関係を築いていきたいと思っている。