8割おじさんこと西浦博さんを巡って

  • ここ1ヶ月ほど本のまとめなどをしていたので、「今の私」が感じていること、思っていることを言葉にすることがお留守になってしまっていた。何かを忘れている感じがないでもない。そこでしばらくは特にテーマを決めず、「この頃の私」が徒然に思うこと、感じることを書いてみたいと思う。

 

  • まず思いつくのが昨日初めてツイッターというもので書き込みをしたことだ。それは新型コロナ対策で「8割おじさん」として有名になった西浦博さんに対し、ネットで非常に批判的な意見やコメントを見たためである。そこで私は西浦さんに感謝していることをどうしても伝えたいと思った。

 

  • 結果的に見れば彼が提唱した「8割の接触削減」は、日本における感染拡大防止には過大な要求だったかもしれない。しかしあの時点で彼の提唱は、未来に起きたかもしれない大災厄を防ぐ勇気ある行動だった感じている。日本に感染拡大を防ぐファクターXがなければ、実際に大災厄は起こり得たのだ。

 

  • 特に私がすごいなと思うのは、感染対策しなければ「42万人」が死亡する可能性があるという予測を、様々な人々からの反対を押し切って個人の資格で国民に伝えたことだ。今この予測が間違っていたと多くの人が批判するが、少なくとも私の行動変容を後押ししてくれた本当に勇気のある行動だと思う。

 

  • しかし前に書いたように、起きなかった災厄を防いだことは誰も評価しない。それどころか国民に犠牲を強いたとして「叩かれる」可能性がある。これではこれから災厄が予想された時(第二波が来るのはほぼ確実だと言われているが)、それを防ごうとする人の勇気を挫くことになりはしまいかと心配になる。

 

  • しかしこうした勇気こそ未来を生かすものだ。西浦さんは3月20日前後の連休前に、阪神間の往来を止めなければ三千人の患者が出ると試算した。厚労省の人が公表してはならないとした資料を大阪府知事の吉村さんは勇気を持って公表し、それが結果的に大阪の今の落ち着いた状況を作り出したと感じる。

 

  • 私には何もできないけれど、せめて一人の人間として、西浦さんの勇気と自己犠牲に敬意を示し、感謝したいと思った。この気持ちが届いてくれるといいなと思っている(ツイッターの操作がうまくできたかは不安だけれど)。そして私自身、たとえ反対・批判されても未来の災厄を防ぐと自分が信じられることを、勇気を持って行動できるようになりたいと思う。

未来を生かす人々4〜子どもの子どもの子どものために

  • 今世界には様々な価値観があふれ、人々の間に分断と衝突が見られる。社会は複雑化し、善意の行動が悪をもたらしてしまうこともある。情報操作が行われ何が真実なのかを判断することすら難しい。そして力を持つ人々がその力を誇示し押し付ける。こうした世界でこの小さな私にできることはあるだろうか。

 

  • こうした私にとって「未来を生かす人々」のコンセプトは、大切な洞察を与えてくれるように思える(恐らくこの時代を生きる他の人々にとっても)。具体的にはこのコンセプトは人や世界をとらえる見方、物事を決める基準、行動するための勇気と責任を与えてくれるように思う。

 

  • まず私は自分の行為が「未来を生かす」のか、そうでないかという観点で判断できるようになる。私が目の前の人に微笑みを持って接し、その人から生まれてくる「今ここ」を大切に関わるなら、私は未来を生かしている。その人をモノとして捉えた瞬間、私は未来を殺している。

 

  • 私の小さな一挙一動は、そのまま未来を生かすかどうかに関わっていく。「未来を生かす人々」のコンセプトがあることで、私は自分の行為の影響に気づき把握できるようになる。私は自分の責任に目覚める。そしてできるだけ未来を生かすために自分を育てることができるようになる。

 

  • これは同時に他者や世界をとらえる見方を養うことでもある。私に「名、権力、金」を与えてくれる人や組織はありがたい。しかしその人や組織が「今の私たち」だけを考え、未来の人々が生きるためにマイナスの行為をするなら、どれほど私によくしてくれても私は共には歩めない。

 

  • その人や組織が「名も権力も金も」求めず、未来の人々が生きるために重荷を背負おうとするなら、その人・組織がいかに小さく弱くても、私は共に微力を尽くしたいと思う。「未来を生かす人々」のコンセプトは、人や組織が行動するその一番のベースにあるのは何なのかを見抜く力を与えてくれる。

 

  • また「未来を生かす人々」のコンセプトは、私が生きる意味と行為する勇気を与えてくれる。今の世界で小さく弱い人にできることはあまりない。病で苦しむ人、経済的苦境に立つ人、偏見に苦しむ人を目の前で見ても、何もできない。私は無力だ。

 

  • しかしこんなに小さく弱い私でも、「未来を生かす人々」というコンセプトのもとでは、できることとその意味を見出せる。例えばこのコロナウィルスの蔓延の中で、「家にいる」という行為は小さなことだ。しかし自分と他者を未来の感染から守ることができる。医療従事者を守ることにもつながる。

 

  • 歳をとるに従い、私は自身が弱い無力な存在になりつつあることを実感する。私は物理的に人を助ける力はない。しかし笑顔で周りの人と関わることはできる。もっと歳をとると周りに世話ばかりかけるだろう。しかし安らかに死ぬことで、周りの人々が将来死を恐れて生きる必要がないことを示すことはできる。

 

  • これらはいずれも小さい行為だ。しかしそれが未来を生きる人々に小さい影響しか与えないかと言えば、それはわからない。一つの行為はある人に影響を与え、それがまた別の行為を生み出し、別の人に影響を及ぼす。だから一つの笑顔が、回り回って一つの国を破滅から救うこともありえるのだ。

 

  • 前に触れた『一万年の旅路』では、「子どもの子どもの子ども」のためにという意思決定と行為の基準を、大切にした人々が描かれていた。文字を持たない彼らはそれを口承によって代々語り継いでいく。私には今またこの「未来を生かす人々」というコンセプトが必要な時代が来ているように感じている。

未来を生かす人々3〜ラボラトリートレーニングの意味

  • 「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分の担う荷物として受けいれる人々」のことを思い巡らせている。そして私が従事してきたラボラトリーもこの「未来の災厄を防ぐ」という観点から捉え直すと、より深くその意味を理解できるように感じている。

 

  • ラボラトリーには参加者全員で行うセッションと8名程度の小グループに分かれて行うグループセッションがある。このグループセッションではメンバーは数日変わらない。そして関わりが深まる中で、「今ここ」で感じたこと、思ったことを伝え、受け取りあう。

 

  • この体験の中で自分の感じ方の特徴に気づき、相手に深く触れる感覚が生まれる時がある。自分について感じたことを他者にフィードバックしてもらうことで、自分についての捉え方、自己概念が変化する時もある。考え方や感じ方が違う他者だが、この瞬間に共にいてくれる「ありがたさ」を感じる時もある。

 

  • ラボラトリーは時に人間関係トレーニングと呼ばれる。しかしこのような体験があったからといって、人間関係が特別上手になるわけでも、何か目に見えるプラスがあるわけでもない。自分の悪い癖も治るわけでもないし、相手にカチンときて喧嘩することもある。それでは何のためにラボラトリーはあるのか。

 

  • それは人間関係がもたらす負の側面が生じた際に明らかになる。例えば人種や性別その他の属性で差別が起きた時がその典型である。またナチスの強制収用所では囚人は全部番号で呼ばれモノ・数字として扱われた。今なお組織の中で、人としてではなく機能として扱われることは珍しくない。

 

  • 実際リーダーの中には、メンバーに対し力を背景に命令で人を動かす以外の方法を知らない人がいる。一人ひとりが意見や気持ちを伝えることが破壊的に思えるのだ。そして自分に起きた怒りをぶちまけ、力を誇示して、恐怖を煽り、服従を迫る。パワハラなどはその帰結と言える。

 

  • これらはすべて人間関係的な災厄と言っていいだろう。そしてラボラトリーでの体験はこうした災厄を防止・軽減する力を持つように思える。私は一人一人が「今ここ」を与えられ生きる存在だと実体験した。だからいくら他の人が人種差別を煽っても、その人を「人種」と言うラベルだけで見ることはない。

 

  • 同様にいくら成果を求められる場面でも、目の前の人をモノや機能という側面だけで捉えることはない。またラボラトリーでは一人一人に気持ちや思いがあること、それを大切にする中でグループが成長することを学べる。だからリーダーとして合意を大事にした組織運営ができるようになる。

 

  • また私はラボラトリーの中で、自分の今ここで起きている気持ちに気づき、それを破壊的にではなく相手に伝えることを学んだ。だからその体験がない場合に起こり得た破滅的な結果、例えばパワハラや深刻な夫婦の危機などの災厄を未然に防止することができていると感じる。

 

  • さらに私はラボラトリーの中で「今ここ」がいつも与えられていることを学んだ。だから失敗や至らなさから自分に絶望し、時に滅びてしまった方がいいと感じても、自暴自棄にならず「今ここ」の流れに委ねる中で自分を許すことができる。この体験には絶望を克服する力があるのだ。

 

  • 人間関係的災厄とは自己概念、人間、人間関係についてのある種の偏りがもたらす災厄と言える。そしてテクノロジーの進歩の中で人間関係的災厄がもたらす影響はますます大きくなるだろう。絶望し自暴自棄になった人が遺伝子を操作する生命科学のテクノロジーを持つ時、どんな災厄が起こりうるだろうか。

 

  • ラボラトリーの体験は、私たちに何か特別のプラスをもたらすことはない。それは普通の人間として生き、関わることを可能にしてくれるだけだ。しかしそれは未来に起こりうる人間関係的災厄を防止してくれる。今この活動に従事することは「未来を生かす小さな人」としてあるあり方の一つかもしれない。

未来を生かす人々2〜小さい人であること

  • 「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分(自分たち)の担う荷物として受けいれる人々」(=未来を生かす人々)は世界の救済や国家の大業という檜舞台だけではなく、市井の目立たない場所にもいるように思う。そしてその人の小さな行動が、大きな災厄を防ぐこともある。

 

  • 例えば目の前にいる人に笑顔を向けるという行為は小さなことだ。しかしその人を気持ちよくさせ、DVという災厄を防ぐかもしれない。人の話や気持ちをよく聴くというのも何気ない行為だが、聴いてもらった人は「受け入れられた」という信頼感を持つ。だからその人が自暴自棄になることを防ぐかもしれない。

 

  • このように身近な人々の小さな、何気ない行為によって災厄は未然に防止されうる。しかしこうした場合、その人の行為によって災厄が防がれたことは、行為した本人にも相手にも、他の人にも見えないことが多い。だから誰にも知られず、感謝もされない。

 

  • またこうした行為によって未来の災厄が確実に防止されるわけでもない。それなのに必要な労力やコスト、自己犠牲は「今」払う必要がある。さらにその行為の意味が理解できない人々からの中傷にさらされ、反対されることもある。未来を生かす人々には、疑い、不信頼、挫折、絶望がつきまとうのだ。

 

  • しかし私には未来の災厄を防ぐ一人の人の小さな行為こそ、未来の人々を生かすための「梃子」だと感じられる。災厄は起きてしまうと多くの人に害悪を与え、それと戦い、克服するには膨大な労苦や大きな力が必要とされる。起こってからでは取り返しのつかないことも多い。

 

  • 一方指輪物語では小さい人フロドはたった数人の仲間で世界を救うことができた。疑いや絶望に打ち克ち、「災厄が起きる前」に行為したからである。私はよく夢想する。あのヒトラーがもし青年期に身近な人々に「受け入れられる」体験をしていたなら、世界はどう変わっただろうと。

 

  • 指輪物語の作者は、物語の中でエルフの賢人に「指輪所持者には力の強い人や戦士ではなく、小さい人、弱い人こそふさわしい」と言わせている。この新型コロナへの対応でも、感染した人を救えるのは戦う力を持った医療者だけである。しかし小さく弱い人は「家にいること」で感染拡大を防止できる。

 

  • 今の世界があるのは感謝もされず、名も知られず、自己犠牲によって災厄を防止してくれた幾多の「未来を生かす小さな人々」のおかげなのだと感じる。私には彼らがユングの言う「原型」を生きたのだと思える。その時代に必要が生じた時、私たちは人類の記憶に深く刻まれたこうした行為へと誘われる。

 

6月 05日 未来を生かす人々1〜未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動

  • 先日、歴史学者ファーガソンがこれからの社会を語る番組を見ていて、とても面白い考え方を提示していた。それは未来に悲惨な結果をもたらす災厄があるということはわかっているが、それがどのくらいの確率で起こるかわからない時、どのように対応するかという話だ。

 

  • 例えばこれからも今のような感染症が起きる確率はあるが、一方でそれは幸運にも起きないかもしれない。事前に対策するとコストがかかる。無駄になる可能性もある。たとえその災厄が実際に起き対策によって破滅を回避できたとしても、「起きなかった災厄」は人々には理解されないので感謝されない。

 

  • ファーガソンアメリカの元国務長官であるキッシンジャーを分析する中でこの考えを得たと言う。外交においてはその結果が確実でない事柄について災厄が最小限となる決定を下す必要があるが、それを支持・賞賛してくれることは少ない。彼はこの問題を「外交決定における推定の問題」と呼んだ。

 

  • 私はこの話に力強く惹きつけられるものを感じた。このテーマは外交に限るものではないからだ。むしろ未来の災厄を防ぐために、支持・賞賛を求めないで行動する人々すべてに関わると感じる。そして私にとっても生きる上で大切なものが含まれているように思える。

 

  • 実際このテーマは多くの物語のモチーフにもなっている。だから人類共通のものと言えるだろう。その一つが『指輪物語』だ。トールキンの描いたこの壮大な物語では、邪悪な力が詰まった「一つの指輪」が描かれる。この指輪が冥王サウロンに渡ってしまうと世界は悪に支配され巨大な災厄が来る。

 

  • 小さい人であるホビット族のフロドはたまたま指輪の所持者となり、仕方なしに仲間と共に指輪を捨てに行く。多くの労苦と英雄的行動によって指輪は破壊され世界は救われる。しかしフロド自身は指輪の魔力に侵され、取り返しのつかない傷を負う。そして彼の救世の行為を知っている者はほとんどいない。

 

  • 西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という言葉がある。この時代には身命を投げ出し、未来を生きる人々の災厄を防いだ、多くの無名の人々の物語があったに違いない。

 

  • またインディアンの祖先を描いた『一万年の旅路』という物語がある。彼らは「子どもの子どもの子ども」が生きるためによりよい土地を探し、アジアから遥か北アメリカまで移動する。自分たちが今暮らせる土地を見つけても、増えた子孫には十分ではないと判断した時、彼らは移動することを選択した。

 

  • こうした物語に共通するのは「未来に起こるかもしれない災厄を防ぐ行動を、今ここで自分の担う荷物として受けいれる人々」の存在である。彼らはいにしえに、まだ見ぬ未来の私たちが災厄にあうことを予見し、その苦しみに共感し、自己犠牲を払ってそれを防いでくれた。彼らは未来を生かす人々なのだ。

ながれと形7〜人間関係の中の流れ

  • 前回までに書いてきたように私にとって大切なことは、今ここに従って、私が私であること、新たな自分になることである。それは私の身を流れる気持ちや想い、感じなどの「今ここの実在の流れ」がより良く流れる方向へのパーソナリティの成長としても捉えることができた。

 

  • ところでこのように今ここの促しを与えられ、生きているのは私だけではない。例え本人があまり意識していなくても、この世界に生きるすべての人には、今ここで想いや気持ち、感じが与えられている。そして私と同じようにその人自身になるように促され生きている。

 

  • 他者はまた、今ここに促されて私にかかわってくれる存在でもある。ラボラトリーの中で他の人に今ここで言いたいという想いが湧いて、私について感じたこと、思ったことを伝えてくれることがある。これによって私は自分でも気づかないクセや特長に気づくことができる。

 

  • 例えば前回否定的な気持ちを伝えられなかった私がいたことを書いた。この時も他の人が私を見ていて、「本当はその気持ちを伝えたいのではないか?」と聞いてくれ、私は初めてその気持ちに気づき、伝えることができた。それによって私はより私らしくなることができたのである。

 

  • 逆も同じだ。私が他の人に感じたことを「今ここ」で伝えることで、その人はよりその人らしくなっていくことが可能となる。このように「今ここ」を大切に生き関わる中で、私の中でも、相手の中でも、そしても、気持ちや想い、感じという流れがより良く流れるように変化していく。

ながれと形6〜私が私になること

  • こうして変化する私を受け入れることは、別の視点から見ると私が私になるということでもある。私はいま、今ここで与えられる想いや気持ち、感じに目を向け、できるだけ気づくように努力し、受けいれ、必要ならば言葉にし、それに従って行動し、人や世界にかかわっていくことを大切にしている。

 

  • ところでどのような時にどのような想いや気持ち、感じが起きてくるのか、私たちは一人ひとり違っている。新しい出来事や人と出会う時、私は少し怖じ気づくが、それを喜びと思える人もいる。同じ時、同じ人に出会っても、私には私の、あなたにはあなたの想いや気持ち、感じが起きてくる。

 

  • そしてこのことが、私があなたとは違う私であることの証である。何かをなし、何かになるということは、「私である」ことを保証してくれない。それは他の誰かでもなし得るし、なりうるからである。今ここで与えられたものを大切にし、それに従って生きる時、初めて私は他の誰でもない私でありうる。

 

  • 同時に今ここで与えられたものを大切にし、それに従って生きる時、私は「新たな私」になることができる。私は長い間、他の人に対し否定的な感じや想いを抱いた時、それを伝えることを恐れてきた。相手を傷つけ、葛藤が起こることを恐れる私がいたのである。

 

  • しかしそれが豊かな人とのかかわりを阻害していることに気づいた時、私には今ここで起きてきた自分の気持ちを伝えたいという強い想いが湧いてきた。そしてその想いに従った時、その人との間に深い信頼関係が生まれてきた。私は否定的なことを伝えるのを恐れる私を超えて「新たな私」になったのである。

 

  • 「ながれと形」について考える中で、今の私にとって大切なことは、私が私である、私が私になることであると感じている。それは私の身を流れる気持ちや想い、感じなどの「今ここの実在の流れ」がより良く流れるような変化を受け入れることである。