“今ここ”と認知バイアス〜「21世紀の啓蒙」を読んで

  • 私は“今ここ”で起きる気持ちや想い、感じを大切に生きていきたいと思っているのだが、最近 この“今ここ”を大切にする上で、気をつけないといけないなと感じたことがある。それは「認知バイアス」によって、私が多くの思い込みをしていること、それによって“今ここ”を大切にできなくなる可能性があることだ。

 

  • 認知バイアスとは、人が物事を判断する場合において、個人の常識や周囲の環境などの種々の要因によって非合理的な認識や判断を行ってしまうことをしている。その代表が「利用可能性バイアス」である。これは記憶に残っているものほど、頻度や確率を高く見積もる傾向のことだ。

 

  • 例えば飛行機事故は印象に残りやすい。そのため飛行機に乗るリスクは高く見積もられやすい。同様に日々テロや気象災害、銃の乱射、汚職などのニュースを見ていると「世界は間違った方に進んでいる」と思い込んでしまう。人間には悪いことの方が簡単に想像できてしまう「ネガティビティバイアス」もあるので余計だ。

 

  • しかし「21世紀の啓蒙」を書いたスティーブン・ピンカーによると啓蒙思想が起きたこの2世紀半で世界の平均寿命は30歳から71歳になった。5歳未満の死亡率はかつて最も豊かな地域でも3分の1であったが、今は最貧国でも6%に過ぎない。致死性の感染症も減少した。極度の貧困は9割から1割に減少し飢饉もほぼ姿を消した。世界は確かに良くなっているのだ。

 

  • こうした認知バイアスに関して私自身危ないなと思ったのは、私の原発への嫌悪感である。福島原発の事故は大きく取り上げられ、印象に残るものであったので、私の中には原発への安全性に対する疑問符がある。また豊かな自然が汚染され、多くの人が故郷に帰れない事実もあり、私には「原発はダメ」と言う思いがある。

 

  • しかしこの思いは認知バイアスからくる「思い込み」である可能性がある。前述の「利用可能性バイアス」や「ネガティビティバイアス」に加え、代表性ヒューリスティックも働いていると思われるからだ。つまり福島原発原発の代表と捉え、そこで事故が起こるのだから全ての原発は危ないと言う思い込みに陥っているのだ。

 

  • ピンカーによれば、こうした認知バイアスから逃れ、合理的に判断するためには「数を数えること」が大事であると言う。彼はまずエネルギーの利用なしに上にあげたような進歩を実現することはできないこと、そしていま環境問題は差し迫った現実の脅威であり、脱炭素化は人類の喫緊の課題としてあることを主張する。

 

  • その上で石炭や石油による発電の死者数と原発による死者数を比較する。例えば石炭火力発電の場合、大気汚染などで毎年100万人が死亡していると推計されている。一方十分なエネルギーを供給できる原子力発電の安全性は高まり死者数も少ない。ちなみに再生可能エネルギーでは十分なエネルギー量にならない。

 

  • もし私が認知バイアスからくる思い込みに囚われていたら、原発推進派の人がその必要性を説いても私はこの思い込みからくる嫌悪感しか感じないかもしれない。これでは自分もまた原発推進派の人も、さらに石炭や石油による発電で大気汚染に苦しむ人をも大切にできない。

 

  • こうした認知バイアスによる思い込みから逃れることは難しい。一度思い込んでしまうと新たな情報が来てもそれをはねつけてしまう「代表性バイアス」があるから尚更だ。しかし思い込みである可能性を常に疑い、それを真実ではなく仮説として扱い、ピンカーに倣って数や論理で検証して見る姿勢を常に持つことは、思い込みをできるだけ防ぐために重要であると感じる。

     

     

半年ぶりの体験学習で思ったこと

  • コロナ禍のなかで、私が関わるラボラトリー方式の体験学習の場はほとんど中止になってきた。組織研修も、Tグループを中心とするラボラトリーもである。この体験学習ではいわゆる3密を避けられないからだ。しかし先週の金曜日、久しぶりに毎年行っている看護マネジメントの研修を行うことができた。

 

  • 実施前には研修の担当者とずいぶんコミュニケーションをとって、グループワークをしないプログラムを検討したりして、感染防止に心を砕いた。しかし最終的に研修の必要性と今の感染状況を勘案して、グループの人数を少し減らす他は、グループワークも含めた通常通りの体験学習の学びを実施した。

 

  • 始まる前、感染防止に注意しなければならない立場の人は、グループワークに対する抵抗感があるかなと思っていた。そして希望者はグループに入らず観察役になってもらおうと思って、その準備もしていた。しかし蓋を開けると、そうした希望はなく全員がグループワークに参加された。

 

  • やってみて驚いたのは、多くの人がグループでの実習を心から楽しんでいるように見えたことだ。何の変哲もない課題解決の実習だったのだが、身を寄せ合い、心から笑い、気持ちや意見のやりとりをする。こうした何気ない関わりがとても嬉しそうだったし、もっと言えば彼らを癒しているようにさえ見えた。

 

  • 後で聞いてみると、こうした研修を再開したのもごく最近のことらしい。恐らく職場では感染防止のために関わりに神経を使っておられるだろう。そして私は思った。こうした人と人とが身体をその場において対面で関わる時、私たちにとって何か不可欠な「何か」をやりとりしているのではないだろうか、と。

 

  • コロナ以前は普段の関わりでその「何か」をやりとりできていたのに、コロナ禍のなか感染防止を徹底する関わりが求められ、その「何か」は徐々に欠乏してきていたのだ。だからこの実習での関わりの中で久しぶりにその「何か」をやりとりできて、あれほど楽しみ、満足されたのではないだろうか。

 

  • そして私はその「何か」とは、私の言葉で言う「今ここ」なのではないかと思う。隣の人の顔色を見てふと大丈夫かなという想いが湧く。それはケアする視線を生む。ただ相手の息遣いを見て声はかけない。しかし相手の人はそれを察知して、この場は受け入れられる場だなと感じる。

 

  • 「今ここ」とはこうした言葉でないものも含めた気持ち、思い、感じである。身体をこの場に置いた関わりでは、こうした「今ここ」のやりとりが自然に半分無意識に行われている。そしてこのやりとりの中で、関わる満足感や充足感、相手への信頼などが生まれてくる。

 

  • 私の中にはこの研修によってこうした「今ここ」がよりよく流れたというイメージが与えられている。自分の中でもその場にいて起きてくる感じや想いがたくさんあり、それを受け取ってもらえた。関わりの中で、この「今ここ」がよりよくやりとりされると、そこには深い喜びが感じられるように思う。

 

『LIFE SHIFT〜100年時代の人生戦略』を読んで

  • これもまたコロナ後の世界をイメージするために『LIFE SHIFT〜100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著)を読んだ。本の題名どおり100歳を超える長寿が一般的になる時代に、個人や企業、政府がどのように対処していったらいいのかを示唆する内容である。

 

  • まずこの本では各種の統計に基づき長寿社会が訪れることが事実としてあることを示す。そしてその社会では従来の教育期間、就労期間、引退後という3つのステージを前提としたモデルが崩れていくという。例えば個人の人生設計や政府の年金制度、企業の人事制度などがその代表である。

 

  • そしてこの長寿社会ではこれまでの3つのステージに加え、どのようなキャリアを形成すべきかを探るステージ、次のキャリアを形成する移行のステージなどが加わる。そしてその社会でよりよく生きるためには資金計画をはじめ、今までとは異なるスキルや資産の形成が必要であると説く。

 

  • 中でも著者たちはお金などの有形資産だけでなく、無形の資産がより重要になると言う。それはより良い成果を生み出すための知識やスキルからなる生産性資産、健康と幸福に関わる結びつきからなる活力資産、そして新たなステージへの移行を可能にする変身資産である。

 

  • 私が驚いたのは、これから重要性が増すと彼らが指摘するこうした無形資産が、私がいつも指摘している「今ここ」と深い関係にあるように思えることである。つまりこれらの無形資産は「今ここで起きてくる気持ちや想い、感じ」を大切にすることなしには形成できないものなのだ。

 

  • まず生産性資産において、著者は経験学習の重要性を指摘する。テクノロジーとオンライン学習の進展によって簡単な知識はいつでも誰でも身につけられる。こうした状況では、知識の量ではなく、その知識を使ってどういう体験をしたかで差がつく。これはポラニーのいう暗黙知と言っていいだろう。

 

  • これは別の言葉で言えばリフレクションによって、実践的知識を身につけていく過程に他ならない。つまり実践をやりっぱなしにせず、そこで起きる体験(出来事と結果、その体験で起きる気持ちや想い、感じ)を意識化し、なぜそうなったかを考え、次の行動に向けて仮説を立てるのだ。

 

  • また彼らは<ポッセ>という小規模の仕事仲間の重要性を指摘する。個人が知識やスキルを活かせるかどうかは周り次第であり、互いが信頼と評判を大切にするチームでは生産性は高くなる。そしてこの信頼関係はチームメンバーが「今ここ」を大切にして体験から学び培っていくしかない。

 

  • 次に活力資産だが、これは支えと安らぎ、自己再生をもたらす資産である。3つのステージが中心の社会では学校時代の友人がこの中心になることが多かった。しかし100年ライフの今は、私たちに多くの転機が訪れアイデンティティが変化するので、これまでの友人では活力資産にならないことも多い。

 

  • 私の経験ではこうした支えと安らぎ、自己再生をもたらしてくれる関係とは、「今ここで起こる気持ち、想い、感じ」を正直に出せて、受け取りあえる関係である。こうした関係のもとで初めて私たちはありのままの自分でいていいと感じられる。そして相互フィードバックによる成長も起きる。

 

  • 最後の変身資産だが、100年ライフでは変化と新しいステージへの移行が不可欠であり、多くの変身が必要となる。この際必要となるのが自分についての知識である。アイデンティティを自ら主体的に作るには、他の人からのフィードバックをもらって自分が何者かを内省する必要がある。

 

  • この変身は単に表面をなぞるだけでは十分ではない。自己認識と世界認識を新たにする必要がある。これによって新たなアイデンティティが生まれるからである。そしてこれは簡単ではない。これこそTグループを中心としたラボラトリーなどで行なっている深いレベルの体験からの学びに他ならない。

 

  • 例えばラボラトリーでは「今ここ」を大切に小グループで数日を過ごす。信頼関係の深化とともに、ありのままのその人を受け入れつつ、互いにその人をどう感じるか、どう見えるかを忌憚なくフィードバックしていく。こうした積み重なりによって、自己概念、ひいては人間関係感、世界観が変容していく。

 

  • ここから見るとこれまで私が取り組んできたラボラトリー、リフレクションによる学び、今ここを大切に定期的に集うコミュニティ、信頼関係構築のチームづくりなどはこれからの社会でこそ必要とされるものだ。そしてこれらは「今ここ」を大切にすることがベースにあることを伝えたいと今私は感じている。

 

 

LIFE3.0〜人工知能時代に人間であること

  • コロナ後の世界がどんな風になっていくのかを探る中で、『LIFE3.0』という本に出会った。これは物理学者のマックス・テグマークが、超知能AIが出現したらどうなるかをシュミレーションしたものである。彼はAIの安全性研究を主流にのせ、有名な「アシロマAI原則」の取りまとめに尽力した人でもある。

 

  • テグマークによれば、生命には3つの段階がある。まずはLIFE1.0は生き延びて複製できる細菌のような生命である。この生命は個体の段階では変化に対応できない。次にLIFE3.0は自らのソフトウェアを設計できる人間のような生命で、学習によって言語や技術などを習得し、世界観なども改められる。

 

  • しかし人間はハードウェアとしての身体を大幅に設計し直すことはできない。この進化というハードウェアの制約から逃れ、ハードもソフトもデザインできるようになる生命の段階がLIFE3.0である。そしてテグマークは、このLIFE3.0がAIの進歩によって誕生するかもしれないと考えるのだ。

 

  • もちろんこうしたLIFE3.0への移行そのものをどう捉えるか、またこのことがユートピアを生むか、ディストピアに至るかについては様々な観点からの議論がある。しかし私がこの本で最も興味を惹かれたのは、このテグマークという人の生命観であり、宇宙観である。

 

  • まず彼は「超知能AI」の誕生が生命の分岐点になると考える。これは人間の知能をすべてにわたって超えたAIで、自ら知能の改良に取り組める。いったんこのAIが生まれると物理法則などが次々に発見され、科学は飛躍的に進歩する。テクノロジーも物理的限界(例えば光速以上早く移動できない)まで進歩する。

 

  • この中でLIFE3.0への移行も可能になる。そしてLIFE3.0になった生命が宇宙に広がることも可能になる。ところで彼は今地球に存在する生命はもしかすると唯一かもしれないと考えている。物理学者として彼はもし近隣の星に高度な生命体がいたなら、もう私たちは気づいていなくてはならないと指摘する。

 

  • なぜなら超知能AIが誕生した星なら、短時間でテクノロジーは物理的限界に達する。そして宇宙へと乗り出すことが予測されるからだ。一方、あまりに遠くの星だと、宇宙の膨張により、地球の生命とは決して出会えない。光速で移動しても届かないからだ。

 

  • こうして一人ぼっちの生命かもしれない私たちがもし滅びたなら、その後の宇宙は、観客のいない劇のように進む。つまり生命が持つ「意識」によって意義づけられることなく、意味なく物資の踊りを続けるだけになってしまう。宇宙の存在価値を意味づけるのは生命にしかできない。

 

  • しかしもしこの地球の生命である私たちが、超知能AIとLIFE3.0を受け入れないなら、絶滅は時間の問題となる。最長でも太陽が冷えて生命が維持できなくなる間しか存続できない。彼はそうではなく、超知能AIによってLIFE3.0となり、この宇宙に生命を広げ宇宙に意義を持たせていきたいと願うのだ。

 

  • だからこそ彼はこの生命を惜しむ。間違っても超知能AIの出現が、今の生命を滅ぼすことにつながってはならない。そのために彼はAIの安全性研究というこれまで傍流だった分野を、メジャーな研究領域にするために最大限の努力を重ねてきたのだ。

 

  • これまで私は全く意識しないまま、例えば太陽の終焉が生命の終わりであるのは当然だし、小惑星の衝突などでもっと早く生命は滅びるだろうと思っていたことに気づいた。そして私は、もっと長いスパンでこの生命の行き方をイメージしている人がいるということに驚きをもって感じ入ったのである。

     

     

  • 新型コロナウィルスの蔓延のせいで、生活が一変して半年が経とうとしているが、このコロナウィルスは私にも多くの悪影響を与えている。高リスクの高齢家族と同居しているため、20代の息子も含め感染リスクを最低限にする生活をしなければならなかった。
  • だから楽しみである外食や旅行も控えたし、電車に乗るのもやめている。仕事面でも体験学習の研修などはほとんど中止となった。結果として収入も減少している。「今ここ」を生きるために欠かせないラボラトリーも開催できなくなり、友人や仲間と顔を合わせるのも少なくなっている。
  • しかしこうした禍をもたらす一方、新型コロナウィルスは私にとって良いものも生み出している。まず何より出張や移動が大幅に減り、体への負担が軽くなった。ここ数年、年間数十日も宿泊を伴う研修やラボラトリーをしていたが、今は家でゆっくりと過ごすことができ、高血圧の症状もかなり改善されている。
  • また新たな生活や仕事のやり方を見いだすことができた。例えば大阪市内の移動はこれまで地下鉄に頼ってきたが、最近はほぼ自転車で移動している。確かに雨の人は大変だが、早いし景色が見ることができるなど快適な部分もある。今までなぜこうした通勤手段を思いつかなかったのだろうと思うほどだ。
  • 仕事でも新たな発見があった。私はアドバイザーの立場で会議に出ているが、今はオンラインが多い。もちろん対面でしかできないこともあるが、オンラインでいいこともある。通勤がないので時間が節約できるし、私がそこにいないことで現場の人がより能動的に動いてくれることも起きている。
  • あと今まで全く見過ごしてきた身近な自然に目が向くようになった。公園にある樹木や小さな花、夕暮れに浮かぶ彩雲、ビルの合間に浮かぶ三日月。これまで自然はどこかに遊びに行って見るものだったが、移動ができない今の私には、ふと目の前にある小さな自然が豊かなものに感じられている。

 

  • さらに家族で過ごす時間が増えた。まず私たち同居家族4人でゲームをしたり散歩したりしている。夕食もほとんど一緒に食べている。こうしたことはこれまで旅行に行った時にはあったが、こんなに日常的に行えるのはほとんどなかった。気詰まりな面もあるが、こうした時間を豊かに持てるのはありがたい。
  • また別居している兄の家族とオンラインを通じてやり取りすることも増えた。「集まれ動物の森」のソフトを私以外の一族全てが持っていて、アメリカにいる姪とも時間を合わせ、一緒にゲームを楽しんでいる。同様に遠くの友人とオンラインで楽しむ時間も増えたが、これもコロナの影響なしには考えられない。
  • あと私が本当によかったと思うのは、これまで取り組めなかった本のまとめと考察に取り組む時間が与えられたことである。特にキルケゴールの「哲学的断片へのむすびとしての非学問的あとがき」という本には、私にとって大切なことが書かれていると思っていたが、忙しさの中でずっと後回しになっていた。
  • ところがコロナの影響で宿泊研修がなくなったので、その時間を使って本を抜き書きし、それを読み直しつつ、私にとってどういう意味があるかを考察していった。それは今の私の実存のありようを意識化することを促し、これからの生き方に影響を与えてくれる本当に貴重な体験だった。
  • このように新型コロナウィルスは私にとって悪影響を与えているだけでなく、様々な良いものも生み出している。まだしばらくこのコロナを意識した生活は続くと思うが、悪いところばかりを見るのでなく、いいところに目を向け、それらがより良い生成を生み出すように生活していきたいと感じている。

 

 

 

 

コロナ危機の中の私の選択的変化〜ジャレド・ダイアモンド「危機と人類」より

  • 前回記述したジャレド・ダイアモンドの危機を克服する12要因を見ながら、私がこの新型コロナウィルスという危機にどのように対処すればいいのかを考えていきたい。私はまずこの問題が私や家族にとって大きな危機であるとはっきりと認識している。

 

  • このウィルスは80代の親がかかると三分の一の確率で死に至る、極めて恐ろしい感染症だ。私たち夫婦もいい歳だから、一旦家に持ち込まれたら皆が無事でいられる確率は高くない。しかも無症状でも家に持ちんでしまう。今コロナを怖がるなとの論調もあるが、これは私たちには大きな危機である。

 

  • 次に私は責任を受け入れている。私は高齢者と同居している家族のことをわかってくれないと国などの政策に不満を覚えることがある。しかし基本的にはこの危機を自分たちで乗り越えなければならないと覚悟している。何かあっても他者のせいにすることはできない。

 

  • だから私たちは生活スタイルを選択的に変化させている。旅行や外食をやめステイホームし、仕事もできる限りオンラインや濃厚接触にならないようにしている。体験学習の研修などは一部を除き、ほぼ中止したり延期したりしている。家に来る人も制限し、運動などもクラブなどに出入りするのはやめている。

 

  • こうした行動変容を支えてくれるのが、専門家の方々による研究成果だ。当初はわからなかった感染する可能性の高い要因が徐々に分かり始め、きちんと発表をしてくれる。この周囲の助けは絶対に必要だ。逆に国が無症状でも感染可能性があることを隠していたことを知った時は、本当に怒りを覚えた。

 

  • 手本だが、こうした状況に置かれている人は周りにあまりいない。しかし自己で責任を引き受けず、選択的変化をしなかった結果、高齢の親に感染させてしまい後悔している手記などを見ると、かなり思い切った形で意思決定と行動をする必要があると感じている。これは他山の石と言えるかもしれない。

 

  • 自我の強さについては自分では評価できないが、しかしこうした文章を書いて検討することは、自分が大切にしたいことを再確認し行動を軌道修正できる力を与えてくれていると感じる。また家族会議を時々開いて、何を大事にしたいかなどを合意できていることは家族の結束を高めていると感じている。

 

  • 公正な自己評価については、特に自分がどのようなストレスにさらされ、どんな気持ちが湧いているかを意識することができている。また定期的に専門家が発信してくれる情報を集めることで、このコロナ感染症という災厄の中で、私たちがどのような位置に置かれているかを把握しようとしている。

 

  • 過去の危機体験についてだが、個人的には銀行員をやめて無職になった時の危機を、そして家族としては十年に渡る父の病と死を一緒に乗り越えることができたことはある程度自信になっている。しかし家族の命を危機に晒すこうしたレベルの危機は初めて遭遇するものと認識している。

 

  • 忍耐力については、常に試されている。他の人が出勤する中、テレワークをお願いするのは後ろめたい。自粛生活に飽きる。コロナを恐れるなと言われ、Go toキャンペーンと言われると私たち家族だけが置いてきぼりにされた気もする。その中でこの危機に対応する責任を意識し続けるのは大変である。

 

  • 柔軟性については専門家の知見によって行動を変えている。初めは物品なども全て消毒していた。しかしそれは必要ないとわかった。スーパーに行くのも極力控えていたが、マスクなどの防御策をしっかりとれば、感染爆発期以外は感染のリスクはかなり低いこともわかり、気にしすぎないようにしている。

 

  • 基本的価値観としては、シンプルに「家族が全て元気に生き残ること」に置きそれを堅持しようとしている。マスコミなどでは、国や地方、飲食店、メーカー、旅行業者、医療者などのそれぞれの立場からの価値が発信されている。しかしそれらは高齢の同居家族を持つ私とは相対立するものが多い。

 

  • 個人の制約としては幸い恵まれた環境にある。子供も経済的に独立し、母も経済的に困っていない。私も研修などの仕事がなくなってもすぐに困る状況にはない。だから無理することなく感染対策を実行できる。家も長い自粛生活を送るのに十分な広さがあり、外に出かけないといられないことはない。

 

  • こう見ると私たちには、異なる立場からの発信に惑わされず、「家族全員で生き残る」という基本的価値を堅持することが必要と感じる。そして専門家の知見の下、リスクを最低限にする行動習慣を身につけたい。そして後は一つ一つの行動を今ここできちんと納得して決め、悔いなく過ごしたいと感じている。

選択的変化〜ジャレド・ダイアモンド「危機と人類」

  • ジャレド・ダイアモンドの「危機と人類」を読んでいる。この本は著者が馴染みの深い7つの国で起こった危機を取り上げ、どのようにその危機を乗り越えてきたのかを著述している。まだ途中なのだが、特に興味深かったのが、「選択的変化」と言う概念だ。

 

  • 例えば私が何かに失敗して危機に陥った時、私には自分の人格や関わり方などの全てを一度に変えることはできない。それは失敗に終わらざるを得ない。できるのは今のままでいい部分と変化を要する部分を見極め意識して選択して変化させていくことである。これは国家でも同じだ。

 

 

  • しかしフィンランドの思惑と異なり西欧諸国の助けは得られない。仕方なくフィンランドはゲリラ的に持久戦に持ち込み、ソ連と戦っていたナチスドイツと連合する。結果的に独立は維持するが、人口比で言えば莫大な数の死傷者を出す。また西欧諸国からはナチスドイツの同盟国と捉えられてしまう。

 

  • 戦後になりフィンランドの選択的変化が始まる。国のアイデンティティと独立の維持は変化させることはなく、外交政策を一変させる。それは戦前のソ連を無視し西欧諸国と結ぶ方策から、ソ連の思惑を理解し、それを叶え、ソ連を安心させ、信頼を勝ち取る戦略への大転換であった。

 

 

  • 結果的にフィンランド報道の自由選挙制度なども含め、西洋的価値を一部捨て去ってもソ連の信頼を得るための政策を保持し続けた。西洋からは惰弱な外交を痛罵されたが、それによって国のアイデンティティと独立の維持を確保し、徐々に西欧との関係を深めることができたのである。

 

  • こうした選択的変化が成功するためには、自らが危機に陥っていることをありのまま受け入れる力、そして自分の置かれた状況や能力をありのままに認める力が求められる。その上で変化のためのモデルを探し、他からの助けを出来るだけ得て、勇気を持って選択的変化に取り組むリーダーシップが必要となる。

 

  • そして今私たちが直面する新型コロナの問題は、私には選択的変化が求められる「危機」として捉えられている。そしてこの問題にうまく対処している国は何らかの変化を遂げている。台湾や韓国のようにITとビッグデータを使った資源の配分や感染のトレースの方法の開発などはその代表である。

 

  • またニュージーランドのように首相のリーダーシップで人々の行動変容を導く国もある。一方コロナ自体の危険性を否認するリーダーやデータの隠蔽、不効率な行政システム(例えばマスクや10万円を配るのに時間のかかりすぎる)という問題に取り組んでいない国は、危機を増幅させている。

 

  • 私には今の所日本ではこの新型コロナの問題は十分に危機と認識されていないように感じる。だから「これまで通りこれまでのやり方で」対応しようとしているように見えている。しかし私にはこれは個人的にも国レベルでも大きな危機と捉えられている。まず私自身が必要な選択的変化を志向したいと思う。

 

 

危機と人類(上)

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